対談「lifeを探して」の6回目の相手は木工作家の矢野義憲さん。10月下旬からの展覧会を前に、辻和美が福岡の工房に矢野さんを訪ね、置かれた場の空気を変える骨太で繊細な作品の背景を伺いました。(Tは辻、Yは矢野、写真・辻和美)

T:表現の素材として木を選んだ経緯や理由から教えてください。
Y:元をたどるとやっぱり親の影響というのは大きいですね。表現をして生きていくのを目の当たりにしてたので、それがいいなって思う環境で育ちました。母は絵描きをしてて、自分もやってるような気持ちでアトリエにいて、とりあえず横で描いてたりとか。高校生ぐらいになると母の知り合いで素描のすごくいい人がいて、その人の絵がすごく好きだったので、真似じゃないけどボールペンで僕も描くようになったんですよ。ボールペンと鉛筆でデッサンとか、綺麗なものじゃなくてもいいからとにかく何でも描いて、色とかも自分が見ている色を疑うとか、いろんなことをテーマに考えました。
T:お母様からいいアドバイスをもらったとか。
Y:世の中に上手い絵描きはいっぱいいるけど空気を描けるようになったら誰にも負けないと。キャンバス内のことで言うと、対象を描くのではなくて、気配とか空気感が描けるようになりなさいよと。それが1本の線かもしれないし、1色の色ペンちょんだけかもしれないけど、人それぞれだからそれを描きなさいって言われました。多分、描いて描いて描き続けた人だけに見えてくるものなのかもしれないんですけど。それは今でも考えてます。
母親の知り合いは変わった人間が多いんですよ。芸術家なんで本当変なんです。本当に変な彫刻家とか、偏屈なおじさんとか。そんな人が周りに溢れてて。世の中にはこういうふうに生きていける人もいるんだなと思ってました。

T:最初は絵で、それがどうして木に?
Y:親戚が木工所をやってて、母がそこで仕事をしていた関係で切れっ端をもらって母も彫ったりしてたんですよ。子供の頃、年賀状は版画だったから毎年ゴム版を彫ってました。木の切れっ端が色々あるからホームセンターでナイフを買ってきて、球体とかロープとか作ったりしてましたね。
大学の頃はしょっちゅう山に行って焚き火をして泊まってました。卒業してからは就職する気もないんでアルバイトをしてた時に、ネイティブアートっていう先住民族の美術に会うんです。日本やモンゴルも含まれる環太平洋のネイティブアート。その昔、大陸から民族が移動して文化が何万年もかけて広がった。それを研究してる会社で働き始めて、美術とか音楽とか技術とか、現地のアーティストを呼んでというのをやってたんです。向こうの人は形は形だけども、かなり意味の方が大事で、それがどう置かれてるのか、どう使われて何故これなのかっていう背景がこれですよ、っていう物作りが文化として発達している。
そういう所って昔で言うニューエイジ的な人たちが集まるんです。インディアンの思想とかそういうのを持つ人たちとか。ちょうどその頃「エコロジー」っていうものが普及し始めて、日本でもISOやりますよと、海外基準を導入していきますよっていう時代だったから、海外からそういう人たちが講演に来る機会が多かったんです。
自然環境とか動物とか文化とかに興味がある人たちが集まる所だったから自然と友達になるわけです。そこにスウェーデン人のジャーナリストがいて、文化的なディスカッションをする相手としてしょっちゅう会ってました。それでストックホルムのど真ん中で自給自足の循環型コロニーをやってる人たちが来るから講演会で九州を回る運転手をやってくれと頼まれたんですね。
僕はインディアンとかアボリジニとかの生き方に憧れてたので地球の文化に基づいて暮らしてる彼らの生き方こそ最高のエコロジーだと思ってました。やっぱり自分が表現して、背景がしっかりある、そういうもの作りをしていきたいんだよねって。美術芸術と生活が分離してなくて人生が表現という生き方がしたいみたいなことを夢見がちに語る時間が何日も続いて。で別れ際に僕は山でいつも彫ってた、ちっちゃな置物っていうか、何か訳の分かんないものをあげたんです。それが多分、僕の木工の始まりだと思うんですよ。


T:それがスウェーデンに行くきっかけ?
Y:その彼が帰国後、スウェーデンにいい所があるぞと家具の学校を紹介してくれました。ガーデン、陶芸、テキスタイル、木工の4つの学科があって、ガーデン科が食事、野菜も庭も作るし、パンも小麦も、今でいうオーガニックフードみたいなので食事当番はみんなで回して。シェアハウスが3軒ぐらいあってそこでみんなで暮らしてて。木工科も自分たちが切り倒した木で作って。全てが自給自足みたいな感じ。余剰分は販売して学校運営に充てるっていう。
カール・マルムステンっていう家具デザイナーがストックホルムに家具職人の学校を作ったんだけど、そこは技術の継承のためで、自然共存型の哲学を形にするためにもう1ヶ所、カペラガーデンという学校をかなり離れた島に作ったんですね。そこのサマーコースに彼らがもう申し込んどいたからなって連絡があって。自分がしたいことに近づける気がしたから、すぐに仕事を辞めて、言葉も喋れないけど行っちゃった。
T:すごい!何歳の時?
Y:24か25ぐらい。北欧家具がいいとか何とかまだ全く知らない、ただ物が作れたらいいと思って行ったんだけど、1ヶ月相当楽しかったんですよ。なんか開放した感じ。嘘みたいな時間だった。3年間の本科に入ろうとビザの延長を申請して、学校をうろうろしているうち先生に「本当に家具屋になりたいのか」「ここはキャビネットが作れてマイスター資格をとって卒業だ」って言われて、これは違うなと気が付いた。それでヨーロッパ、アジアを回って帰ってくるんです。
でも学校で一番感動したのが、器彫りだったんですよ。当たり前ですけど、手を動かしたら、もう対象物の形が変化するっていう。それまで平面上の世界しか知らなかったからすごい新鮮だったんです。帰ってきたら、まず形から入ろうって、東京の有名な刃物屋さんに行ったら、「家具屋じゃ食えないよって」って言われて。どうせ食えないなら好きなことをして食えない方がいいと思いました。
T:それで木工作家を目指したわけ?
Y:いや、まだ。母の芸術家仲間に現代彫刻をやってる人がいて、その人の息子さんが木工やってると。遊びに来たらいいって言われて、行ったんですよ。それが縁で3年半ほど、弟子のような生活を送ることになるんです。生意気だったせいか、そのうち植木屋さんとか農家さんとか採石場とかにアルバイトに行かされる生活が始まったんですけど、現場で職人さんと働くうちに色んな技術を学ぶ事ができました。
先生の家には酔っ払っていろんな人が来るわけです。僕は貧乏でお酒を覚えたらお金が掛かるからずっと我慢してましたけど。上の世代の絵描きとか彫刻家とか焼き物屋さんが集まって工芸とアートとその辺について議論するのをちょっと冷めた目で見ていました。そのうち精神的にもまいってきて、結婚を機に独立しますって宣言したら酔っ払ってる先生から「百パーセント無理」って反対されたけど「絶対やり遂げます。ありがとうございました」って言って出たんです。「意地でも木で食ってやる」と思って。それが木工を素材として選んだ理由です。
T:興味深い修業時代ですね。反骨心が原動力になったんですね。(笑)
Y:反骨でしか生きてない。そんな人間だから、個展は年に1回しか絶対にしない。しょうがない小銭稼ぎやってる姿を見られたくもない。年に1回、島のお客さんも船じゃないと来れないような所で博物館を全部貸してくださいって。安易にその辺のギャラリーでするなんて許さない。全てが闘ってるっていう意識でした。それで10年間はこのスタイルを変えないって言って、40歳になるまでは個展は年に1回しかしない。媒体には出ないし宣伝もしない。情報も入れない。先生にも連絡はしない。とにかく歯を食いしばって生きていくって決めて10年間やったんですよ。

T:その後、一躍注目を集めるんですね。
Y:いやいや、東京で焼き物との二人展の後、九州の雑誌の表紙に取り上げられて、先生の所に挨拶に行きました。唐津の人と知り合ったり、ファッション誌の取材で料理家の細川亜衣さん(熊本)と出会ったのもこの頃です。ギャラリーをしている細川さんから展覧会の話があって、そこからいろんな人との繋がりができました。
T:モビール、大きな立体、中国茶の道具、家具的なものとか、幅広く作ってるけど、この表現の幅はどこからくるの?
Y:さっきの話とかぶってくるんだけど、平行線上にあるものってことですね。美術とか工芸とかっていうジャンル分けは僕はいつも「どうでもいい」と言ってるんです。人を傷つけるような言い方をするのは昔の全否定時代の僕のちょっと悪いところなんですけど、それはもうそういうことを言ってる段階で違うんだと僕は思うんです。作ることと生きることが平行にあって、それがモビールであっても家具であってもオブジェ、アートであっても、僕のライフという道が平行に走ってるだけっていうので。
それまでずっと手の平に収まる世界が続いてたんです。自分の作りたいものしか作ってなかった。それが人に使われて人に喜ばれるっていうものを知ったことで、対価としてお金をいただける、生活も少しは回るようになってきた。ただ求められるものも当然増えるわけですよ。今までは提案するだけだったけど。それを人との出会いっていうものを喜びに変えて、物を作るっていう。使ってもらうというのも人と出会えるきっかけだったんです。
やっていくうちにどんどん個展も決まり始めて、2年間、3年間とか。もう自分が壊れるなっていう寸前に怪我をするんですよ。やってしまった反面、やっと終わったっていう感じもしたんです。

T:なるほど、大変でしたね。ちょっとドラマみたいな。そちらの話を膨らませてなくて申し訳ないのですが、話を作品に戻していきますが、私は矢野さんのモビールが好きなんですが、モビール始めたきっかけとかありますか?
Y:修業中はお金ないじゃないですか。でも彼女誕生日だったんですよ。誕生日に何かプレゼントをあげたいけど、お金がない。それで粘土で作ったものをあげようと作ったのが一番最初のモビールです。鳥と卵が付いてるモビール。焼いてね、だから最初のは陶器です。修業先の先生もお父さんの大先生もカルダー(アレクサンダー・カルダー)っぽいモビールを作ってたんですよ。それが頭の片隅にあったんだと思います。それで鳥を作り始めるんです。夜でもポリポリ彫れるしね。
それから老人介護施設に置く話をいただいて、ホールの真ん中に吊るしてあるモビールを認知症のおじいちゃんおばあちゃんがほけーっと見上げてるわけですよ。それがなんか写真に収めたくなるようないい景色だったんです。話が遡るけど、その時に「空気」があったんです。場所を作ってたんですよ。要は作品じゃなくて、作品のある景色とか風景ができて、写真を撮りたいという感情が生まれたんです。あぁこれだと、母が言っていた「空気を作りなさい」というのはこのことかと。よく思うのは、存在の「ある」っていうのがものすごく好きで、ただあるだけ、だけど確実にそこにある、ないと困るみたいな。そういうものなんだっていうのに気付いてそれからモビールを作るようになって、本格的に。なるべく目立たないように作ろうかなっていうのがモビールの始まりですね。

T:形は違うけど、全ての作品に共通点を感じますね。
Y:そうだと思います。存在してるっていうことでそこが成立してるものっていうものを作りたい。
僕の中で実用っていうものが上じゃないんですよ、物に対する考え方が。だからそこに「ある」ということが上なので。じゃあ使い手のことを考えてるかって聞かれたら、考えてなかったりするんですよ。
その時によく思い出すのは大先生が「穴が開いとったら物が入るけん器たい」「平らやったら物が置けるけん机たい」「座れたら椅子たい」って、いつも言ってたんです。それが今でもぱっと出てくる。だから、それが「ある」っていうことが一つの用途であって、あとは危険じゃないっていうのは当然ですけど、それ以外は誰が手に取るかの問題だと。
T:お茶道具はいつから?
Y:茶道具っていうのがまだ難しくて。僕は日本茶、抹茶をやってたんですけど。福岡に昔、玉屋デパートっていうのがあって、そこの会長が持ってる迎賓館が今はもう国が管理してるんですけど、そこに日本庭園と茶室があって。その頃は権力と闘うことが個展だと思ってたから、国のものでも何でも「ここで個展がしたいです」って言いに行ったんですよ。「ここでお茶会がしたい。ちなみにお茶の経験はありません。けど、お茶の世界を知るためにここで個展がしたい」って。当時からお茶椀は作ってたからね。
初個展の時の島の博物館の館長さんがお茶の先生だったんです。お茶は自由だけど世界が狭いっていう話をいつも聞いてて、その先生ももっと開放しなさいみたいな人だったんですよ。僕はすごくその言葉に励まされて。木じゃダメだって誰が決めた、みたいな。使いにくいって分かってて作ることこそ闘いだ、みたいな。これで飲めないんですか、みたいな感覚だった。
それが1回目が好評で、なんかどんどん茶人が集まってくるんですよ。イスラム教徒の茶の先生と出会って、それがすごく面白いんです。自由にやらせてくれたんですよ。「僕たちは茶人だからどんなものでも見立てるし使いにくいものは使わないし」って言って、結局、お茶会を僕の道具で全部やってくれたんですよ。
T:まだ30代ですよね。さすが!
Y:そういうのは全然怖くないですね。全く怖くない。床の間の軸の代わりにモビールがあったりとか。花の絵じゃなくて植物が風に揺れている姿です、みたいな感じで。ちょっとうんちくも嘘言いながらでもやったりとか(笑)。窮屈な世界って言ってたけど、意外に人と出会うことって自由だったんですよ。お抹茶ってめっちゃ自由だと思って。本当のおばちゃまたちが着物で座ってるところにパカって半分ひびが入ったような茶わんで。それはそれでカッコいいんじゃないかと僕は思って。でも批判されることもいっぱいあった。これ誰々っぽいとか、木で茶わんなんて意味ないとか。いやいや分かってるよそんなこと、そこで向き合いやり続けて闘ってるっていうのが表現だから、そこを汲み取れないあなたはお茶に向いてない、っていつも言うんです。それぐら自由にやれた。
T:中国茶の道具も手掛けてます。
Y:中国茶は自由と見せかけてめっちゃ不自由なんですよ。なぜかというと道具の制約が多いから。お抹茶の場合、最低限必要なものって茶入れ、茶杓、茶わん、建水ぐらいですよ。あとは水指か。炉とかはもう僕らの世界じゃないんで。中国茶はより繊細で、ものが小さい。注ぐときの筋とか、音とか。所作も。もうすごい考えなきゃいけないわけですよ。難しいし面倒くさい。でもこの間の(ズーマの展覧会に出品した)茶箱は面白かったです。



T:最近の興味とこれからやりたいことは。
Y:本当に好きな木っていうのはクスノキなんです。最初の10年間はクスノキ以外は触らないというルールを作ってたぐらい。修業していた所の人たちの考え方もあったんですけど、すごくいろんなことを助けてもらった木だったので。
クスノキは樟脳っていう昔の防虫剤を作る材料なんで食器としては使いづらいんです。香りが強いっていうことに人を拒絶してるっていう自分と重ねてました。人の暮らしに近づかない、こっちから拒絶するっていう意味で「使えない器」っていうシリーズを作ってて。それは高台はなくてボウルの形をしてます。用途として使うんではなくて、手で包んだものをゴールとする。あなたが手に取ってアッて思った瞬間に完成だと思ってる、っていう作品をずっと作ってたんですよ。
木は全部自分で集めてたんで、どこで切り倒された木です、枝打ちした木ですっていうと、器を持ってあの木に行ったら多分その木があなたにとってちょっと特別な木になるんじゃないって。実際手元にあるものがまだ生き続けてるってすごくないですか、っていう自分の感動を伝える10年間をしてきたんです。
人は正直拒絶するけど木ってずっといてくれるっていう安心感っていうんですかね。裏切らないというか、こっちが応えさえすれば。だから未だに神社の木にお参りに行ってます。
木に会いに行くっていう時間も作品だし、そこでどう感じるかっていうのも作品の印象に大きくっていうね。何かその流れが僕は好きだったんですよ。
それから木を使って人と関わってお金を得ていくためにはって考えて、クスノキを全く使わない時間が始まるんですよ。全く使わない期間がずっと流れて食器とかそういうのを作っていって。それでちょっとまたワープして、怪我をする瞬間にいくんですけど、何となくクスノキの樹齢1500年の木の枝を使って器を作ろうとしたんです。すごい忙しいときに大きな木を出してきて。何か威張りたくなったのかな。仕事し始めた瞬間です、怪我したのは。そういうことかと、やっぱり何も繋がらずしてものを作ってはいけないんだなと。で今度は気持ちがクスノキにぐんと向かうんですよ。そしたらやっぱり面白いこの木ってなってどんどん作り始めて今。それがkankakari(京都のギャラリー)で出したのが、こういうクスノキばっかり。それでこれを受け入れてくれる人たちがいるんだ。やっと受け入れてくれる人たちが出てきたと思って。今は100%はもっていけないですけど、並行してできる状況になっていけばいいなと。決してこれだけでは無理だしそんなに天才じゃないから、そんな形はいっぱい作れないし。でも器だけだと多分僕はまた壊れてしまうので。ちょうどいい方向で今から行ければいいなと思って。今一番その中で見つけてるのがやっぱ箱なんですよ。一つの形だけじゃなくて何かそういう自分が気持ちを満たせる両方があるかなと思っているので、箱はすごく可能性を感じています。

T:じゃあ対談のテーマ「ライフ」で思い付くのはどんなこと?
Y:並走している感じですね、表現と。決してアーティストっていうのは好きじゃないし。それがないと面白くないですね。だから常にしていたい、という意識が強くて。並走。決して一緒になってる感じじゃないんです。あとはね、負けたくないんですよ。とにかく自分がいいと思うんだったらいいと思い続けていたい、そういうマインドはあります。
T:金沢の個展はどんな風になりそうですか?
Y:考えてはいるんですけど、まだまだ形になってないから軽はずみには言えないんですけど。あと3週間ありますね。これからが一番面白いところです。箱は今回も出すんですけど、ちょっと大きめにしました。あとは球体とか。板も出します。今から茶海とか片口とか作ります。器を並べるだけというのは想像できない。見てて、一緒に居て、いい空間になればと思います。以前の個展より、もっとあの場所を意識した展覧会にしたいなと考えてます。

<略歴>
矢野義憲(やの・よしのり)1973年、東京都生まれ。スウェーデン・エーランド島の手工芸学校「カペラガーデン」で家具作りを学ぶ。2000年、木工造形作家の元で制作を始める。2003年、福岡県糸島市に自宅と工房を構える。美術の領域から自由な作品を国内外で発表。
<編集後記>
矢野さんの作品に魅了されて福岡の糸島の工房に初めて訪れたのは、5年くらい前です。それからもう3回くらい訪れました。いつも盲導犬になれなかった人好きのラブラドール・レトリバーのフランキーが優しく迎えてくれます。矢野さんとはこんなふうに、なんでもない話をダラダラといつまでもしてしまいます。今度は金沢でお待ちしています。(辻和美)
注)記事内の作品の写真は前回のfactory zoomer /galleryでの展示風景を使用しております。今回出品の作品とは異なります。
80th exhibition
yano yoshinori
2024.10.25 fri. — 11.24 sun.
●10/25(金)謝小曼さんの茶会を開催いたします。それに伴い10/25(金)はお茶会にご参加の方のみのご入店とさせていただきます。※ご予約受付は終了致しました
●10/26(土)12:00~15:00までお時間は、事前ご予約制とさせて頂きます。※ご予約受付は終了いたしました。