対談「lifeを探して」7回目の相手は木工作家の佃眞吾さん。11月末からの展覧会を前に、滋賀県長浜市木之本町の新しい仕事場を辻和美が訪ねました。(対談は2024年11月半ば。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)
辻:立派な木造建築ですね。
佃:昭和の初めの建物で、以前は呉服屋さんだったそうです。玄関を入ってすぐの小上がりで反物を広げていたんでしょう。古い木の棚はそのまま作品の展示に使っています。もともと長浜の生まれで両親もこっちにいるし、いずれは帰りたいと思っていました。
辻:母屋に作業小屋に離れと広い駐車場もあってびっくりしました。制作しながら作品を見せていくのには、素晴らしい環境ですね。
佃:前は母屋の裏に蔵が3つあったそうです。空家バンクで見つけて運よく手に入れることができました。北国街道沿いの街並み保存ということで改築には市から補助金をもらっています。2年前から工事を始めて、少しずつ京都の家から物を運んで、今年中に引っ越しを終えるつもりです。仕事場が広くなるので弟子も2人取りました。
辻:木の仕事が長い佃さんですが、始めたきっかけから教えてください。
佃:大学は経済学部で、もともと芸術系じゃなかったんですよ。卒業して大阪で額縁屋の営業をしたんだけど半年で辞めて。漠然と大工になりたいな、と思っていました。当時はログハウスが流行っていた頃で、カントリーライフに憧れがありました。ちょうど音楽の友達の実家が京都で家具を作っていて、そこで雇ってもらえることになりました。それが木の仕事の始まりです。
辻:どんな家具を作っていたんですか。
佃:店舗やマンションの作り付けの家具です。トイレとか下駄箱とか。材料は大体ベニヤでね。3、4年経って、そこそこ出来るようになると、木工は木工なんだけど何か違うなと思うようになって、黒田辰秋さん(木漆工芸家、人間国宝)の息子さんの乾吉(けんきち)さんが講師をしている木工塾に通うことにしました。
辻:厳しい塾だったんじゃない?
佃:コアな感じでした。まずは刃物研ぎから。家具の仕事が終わってから週に3日、そこで刃物を研いでいました。1年ぐらい。刃物が研げるようになったら、それでお盆を彫る。お盆が彫れたら漆を塗って仕上げる。一貫して自分で作り上げる木工の塾でした。でも何も教えてくれない。みんな自習でやっていました。
辻:鍛えられましたね。
佃:面白い人が多くて刺激を受けました。そこで工芸も民芸も知ったんですよ。漆も初めてだったし。そうするとベニヤの仕事じゃ物足りなくなって指物の仕事を探して職業別電話帳を見て片っ端から電話しました。大体断られましたけど、話を聞いてくれた轆轤(ろくろ)屋さんが指物(さしもの)屋さんを紹介してくれて。その指物屋さんは木工塾に通っていた頃、日曜ごとに指物を教わっていたベテランの職人さんで、辰秋さんの下請けをしていた人でした。その方が戦前の丁稚時代に修業していた指物屋が井口木工所で、箱から箪笥まで木のものだったら何でも作る和家具の工房でした。初出勤の日は1995年1月17日。阪神大震災が起きた日だから、よく覚えています。そこに27歳から37歳まで10年間いました。
辻:そこから、作家になろうと思ったのはいつ頃ですか。
佃:最初は職人として独立するつもりでした。それが木工組合の展示会のために何か作ることになって公民館みたいな所で10人くらいでやっているうち、京焼の陶芸家から「2人展をしないか」と誘われて。貸しギャラリーで3日間だけの展示でした。続けているうちに京都・大丸でも2人展を開くようになりましたけど、独立後も8割方は前いた木工所からもらった職人仕事でした。
辻:では、手応えを感じるようになったのは、何かきっかけがありますか。
佃:ネットか何かで見た四日市のギャラリーが声を掛けてくれて、陶芸家の高仲健一さんと2人展をやったのが作家としてのデビューです。高仲さんは同い年ですが、李朝の写しとか作って既に有名でした。それを見た銀座の日々(にちにち)さんから話があって個展をすることになりました。多治見の百草(ももぐさ)は作品を段ボールに詰めて持ち込んだら、安藤雅信さん(陶芸家)に「これいいじゃない」「どんどん見せて」と言われて京都展を開くことになって。百草で偶然お会いした三谷龍二さん(木工デザイナー)も「なかなかいいね」と太鼓判を押してくれました。
辻:百草で見た作品、覚えてます。お椀もお皿も「揺らぎ」があったのに驚きました。私が知っている漆のお椀は、カチンとしたものが多く、ひとつひとつを見て選べるのがとても新鮮で。木工作品と言うよりガラスとか焼き物に近い感じがしました。
佃:木工の仕事のうち指物は理知的で計算づくです。一方、刳物(くりもの)は計算づくじゃなくて彫刻に近い。僕の場合は彫刻的な刳物を計算づくで作ってるんです。何となくは作らないかな。
辻:そこに感動したんです。金沢に住んでるときれいな輪島塗のピシっとしたものばっかりだから。
佃:昔のお椀の作り方は生木だったんですよ。実は、昔の作り方を沢山研究しました。今は機械で回転させるから真円になるんです。漆を塗った後も機械で回転させて研ぐからピシーっとなっちゃう。昔は手回しでゆっくりの回転だから生木でないと硬くて削れないんです。その作り方でできてるから自然な感じになるんです。
辻:なるほど、それが今、私たちには心地よく感じます。では、佃さんが、制作する上で大事にしていることは何ですか。
佃:こんなの作っても売れないだろうなというものが、誰か買ってくれる状況になってきたから諦めないようになりました。作りたいものを作っていいんだと。
辻:作りたいものって?
佃:一点物を作りたいんですよ。たくさん作れない大きなもの。蓋物でもお椀でも、自分が素直に「この木で作りたい」と思うもの。その時その時作りたいものをやらないと駄目だなと思う。あと何年できるか考えながら仕事しています。
辻:木の木目についてはどうですか。よく、銘木を探しに行ってますよね。(笑)
佃:木目のマニアなんです。レアなものが欲しい。誰も持っていないレアな木目。植物が素材だからどの木目を選ぶかで作品は決まるんですよ。だからそこは譲れない。建築でも家具でも木にはTPOがあるから、作るものによって木の種類は決まってきます。
辻:これから取り組みたいことは。
佃:ずっとやってなかった家具を作りたい。作品を見てもらえるスペースもあるし。自分のルーツに戻ったんだから、この土地に何か貢献したいって言うか。この土地にこういう木工をやってる場所があるんだ、という所になればいいかなと。木工の文化として貢献できればと思います。
辻:では恒例の作家皆さんに聞いているんですが、ギャラリー名に「life」と言う言葉が付いています。ここから浮かぶことは何でしょう。
佃:いわゆる「生活」って頭の中にないんです。仕事がマイライフ。寝る直前まで仕事していますから。朝9時から夜中の1時まで仕事場にいるんです、毎日。仕事しかないんですよ。時間は全部、仕事に費やしたい。
辻:いやー、そうですよね。作り手って結局きちんとした生活は出来ないですよね。さあ、金沢の個展楽しみになってきました。どんな作品を見せてくれますか。これまでの展覧会はいつも年をまたぐから年末の前半が洋物、年初めの後半が和物という構成でした。
佃:撮影用に送ったちょっと大きめの箱を1点。台があるから一点物を3点ぐらいポンポンと置いたらどうかな。後はいつも作ってる使えるようなものを持っていきます。
<略歴>
佃眞吾(つくだ・しんご)1967年、滋賀県長浜市生まれ。1990年から京都で家具作りの研鑽を積む。その傍ら黒田乾吉木工塾に通い、木漆一貫制作を学ぶ。京指物の井口木工所で家具・指物職人として働いた後、2004年に京都・梅ヶ畑で独立。2024年、郷里の長浜に新しい工房を構える。国画会工芸部会員。
<編集後記>
宿場町の風情が残る木之本町の中心街。その中でも一際立派な店構えの商家が「木工藝 佃」の新しい工房でした。朝から晩まで、日付が変わっても仕事場にいると言う佃さん。郷土への愛を滲ませながら今後の仕事を語る笑顔が静かに輝いていました。(鈴木)
81st exhibition
tsukuda shingo
2024.11.30 sat. — 2025.01.05 sun.