対談「lifeを探して」の10回目の相手は、自らの焼き物を「雑器」と呼び、日々の器を作り続ける陶芸家の中本純也さん。ぽてっとして温かみのある灰白色の磁器はどんなふうに生まれたのか。辻和美が和歌山・龍神村の山中にある工房を訪ね、制作に込めた想いを聞きました。
(対談は2025年4月中旬、和歌山県田辺市龍神村の中本さんの自宅・工房で行った。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)

辻:ズーマでの個展は前回が2022年だったから3年ぶり、これで3回目です。いきなり聞いちゃいますけど、どんな感じになりそうですか。もう気になって仕方なくて。
中:うーん、大きな変化はないかもしれないです。新しいものもあんまりないかも。でも金沢って昔から京都とはちょっと違った魅力があると思ってて、そういう所で自分の器を見てもらえるのはすごく嬉しいです。
辻:私はガラス作品の制作の他に、ギャラリーオーナーもやってるわけですが、作家選びは自分と「似た言葉」を持つ作家さんにお願いしてるんですよ。その言葉に共感してもらえるお客さんに集まってもらえたらいいなと思っています。金沢では、そんなに同じ言語の人は多くないのですが、ぜひ見てほしいと思っています。
中:そうですねぇ。古九谷とか金彩とか、雅な感じがします。でも古九谷の妖しさ、闇というか、あれは究極の美ですよね。京都と違った濃さがある。日本の花鳥風月の美意識にピタッとはまってる。これは僕の勝手なイメージかもしれないけど。
辻:絵付けもお皿一面ですものね。中本さんの世界観とは真逆ですよね。
中:でも好きなんですよ。すごい魅力的。あれは「ハレ」の器で、僕の作ってる雑器は「ケ」。世間一般で言う王道には参加できないから、自分の道を探さなきゃいけないんです。

辻:出身は大阪でしたっけ。どんな子ども時代でした? どうやって焼き物の世界にたどり着いたんですか?
中:河内長野の生まれです。大阪でも南の山の方。一言で言うと落ちこぼれでした。勉強はできないし、言われたこともできない。小中の頃は誰からも相手にされなかった。
辻:なんか私たちの時代って、できないことに対して厳しかったですよね。
中:太い大きな流れには入れなかった。でも高校の時にこれなら自分も行けるかもっていう道があったんです。私立の高校で、勉強はほとんどなくて、一日じゅう絵が描ける。そこを出た後は、印刷屋さんか看板屋さんに行けるっていう。授業はポスターカラーで平面の配色とか、レタリングとか。 印刷は写真製版が主流だったから写真の授業もありました。
辻:どこですか?
中:初芝高校。元の商業高校。僕はデザイン科だったけど、今はもうなくなったんですよ。そこでやっと自分も毎日学校に行って張りのある生活ができるようになったかな。
辻:そこから美大を目指したんですか?
中: 卒業の年になると、いろんな専門学校とか大学の説明会があって、コンピューターグラフィックの専門学校が楽しそうだったけど、結構親に負担かけてたから無理かもしれないなあって思ってた。そんな時、学校の図書館でなぜか分からないけど焼き物の本を見つけて、「あ、こういう世界もあるのか」って。何年か前の先輩が大阪芸大で陶芸やってるって聞いて、まあ受験ぐらいはいいかなと思って受けたら通っちゃった。
辻:土は初めての素材でしょ。
中:そうですね。平面から立体だし、とにかくその素材をマスターしないといけなかった。その大学の図書館も充実してて、古い映画まで見れるから、とんでもない遊び場というか。確かにね、大学は面白い授業もいっぱいあったし、4年間充実してましたね。


辻:大学では どんな作品を制作していましたか?
中: 器だけじゃなくて、表現っていうか。2回生からは部屋をもらえるんで、しょっちゅう行って、なんかいろいろ作ってましたね。 ろくろもできるし。 粘土っていう素材で自分が履いてた靴をデッサンしたり。
辻:当時の陶芸は、土の可塑性とか、素材の可能性とかいって、どこまでアートに近づけるか追求してた時代ではありませんか? 中本さんはいつからそうじゃない方に向かうわけですか?
中:そうですね。活発にやってましたね。みんな。卒業した人たちが美術館に搬入に行く時は手伝いに行って、どんな仕組みになってるのか見てました。自分も公募展にぼちぼち出したりして。でもこれで行けるという手応えはなかなか掴めなかった。憧れたものの、あっち齧りこっち齧りの寄せ集めで。それで卒業間際の3月になって学生課に駆け込んで就職先を紹介してもらって、洗剤会社に1年半お世話になりました。
辻:いったん陶芸やめたんだ。
中:離れたんですよ、1回。その会社では洗剤のプラスチックボトルを作る部署があって、図面を書くことからです。また違う勉強が始まった感じでしたね。ドラフターもCADも一から上司に教えてもらいました。

辻:そして、その会社を辞めてから、誰かに弟子入りしたんですか?
中:いや、それが、南米に旅行に行っちゃった。大学の同級生だった理詠ちゃん(妻、陶芸家)を訪ねてコロンビアへ。そこは生活は近代的なんだけど、食器は土器なんです。こんなすごい国があったんだ、素晴らしいと思いました。これこそ自分が生きてく場所じゃないかって。こういう美しい生活って、学生時代に古九谷を見た時と同じ、「ウワー」って感じがしました。田舎に行くと水道も電気もガスもない中で、大きな瓶にトウモロコシを砕いたのを発酵させて、それを食べて生きてる。おばちゃんが土器を作って、市場で売って暮らしてる。生産と暮らしのつながりは日本の信楽を思い出しました。コロンビアには半年ほどいて、その後、メキシコ、グアテマラ、ブラジルとか回って展覧会を見たりしました。
辻:それで帰国してから窯を作った?
中:25歳ぐらいで日本に戻って、大阪で理詠ちゃんと住み出して電気窯を買ったんです。本当にこれで食べていくのか、何を売りにするのか、真剣に考えました。結局、生活と器作りを一致させる、この暮らしを追求するしかないと。日々作ることが自分の足元をつくっていく、これから先の時間をつくっていく。それが今の雑器なんです。
辻:龍神村との出会いは。
中:とりあえず関西のいくつかの村の村長さんに手紙を書いてみたんですよ。ぐるぐる探して回る前に。役場の担当者がたまたまこの近くの人で、土地を紹介してもらって。林業をやってる大家さんは、僕と同じ年頃の息子さんがいて、話を分かってくれて。それでここに決めました。 それと理詠ちゃんの幼馴染が大工さんで、最低限必要なものを書いた間取り図を持って相談に行ったら、基礎の作り方から、生コンを流すコツから、土壁のアイデアとかいろんなことを1日で教えてくれて。持ってった紙にいっぱい書き込んで、それがこの家を作る時の教科書、設計図になりました。


辻:一番最初にしたのは。
中:敷地にいっぱい立ってた木を切ってもらって、その木を整理してたら犬の散歩で通りがかったおっちゃんと知り合って。その人がまた大阪から移住してきた大工さんで、手伝ってくれることになったんです。
辻:すごい偶然ですね。
中:一緒に製材所に行って、どんな木を選んだらいいかコーディネートしてもらって。それで掘っ立て小屋で製材所から来た木を刻んでくれたんですよ。 予算がないのに「いいよ」って。その間に僕は地面を掘って基礎を作って、基礎ができたらこれで建つわっていう感じ。 4月に引っ越してきて、8月に棟上げ。とんとん拍子です。そこから土壁の下地を編むのに2カ月ぐらい。で11月、やっと土を塗ったかな。年明けに鉄骨を組んで1月から窯を作り出したんですけど、窯は最初から薪窯と決めてました。
辻:どうして薪じゃないとダメなの。
中:第一希望、薪。第二希望、なし。できなければ諦めて就職するつもりでした。そこに妥協はなかった。学生時代から結構、陶芸の産地とか作家さんの工房とか見てきたんですけど、薪窯は生活と一体なんです。ガスとか電気だと切り替えてる感じがする。自宅と会社みたいな。
辻:仕事と生活を一致させたかったんですね。
中: うん、目指してるのはそっちだったので。雑器を作るのと庭で野菜を作るのも同じ。それしかできない。それがガッチリ重なるのがいいなと思った。陶芸をやりたいというより生き方の中の選択が粘土だった。他の選択肢はないんですよ。



辻:初めの頃は磁器じゃなくて陶器を作っていましたよね。
中:茶色い焼き締めね。あれは「炻器(せっき)」。焼き上がった時が完成じゃなくて、その先がまたあるというのは予想してなかった。使えば一皮剥けるんです。それが美しい。
辻:なんでやめちゃったんですか。
中:焼き締めでは自分が目指す雑器が実現できなかったんですよ。なんか焼き締めは敷居が高いように扱われて、今みたいに見てもらえる場というか受け皿がなかった。焼く技術もすごく大変で作るのに時間がかかりすぎることもあって、これ以上続けるのは無理ってなった。
辻:どうやって切り替えていきましたか。
中:ここに来たのは31歳なんですけど、もともと30歳までにやりたい環境が整わなかったらすっぱり焼き物はやめようと思ってたんです。無理しすぎて体を壊したこともあったし。でも明日からやめるとして最後にやりたいことは何かって考えたら、朝鮮・李朝の白磁でした。売れるかどうかは別にして、とにかくやろうと。それで窯を作り直したんです。

辻:窯は焼き締めの時と白磁を焼く時では違うんですね。知らなかったです。
中:そのままでは使えないんですよ。たとえ使えても自分の思い描いた雑器とは違ってくる。薪窯は自分で規制しないと上品というか位が高くなっちゃう。雑器にならない。観賞用になっちゃうんです。
辻:薪窯だと付加価値が付いちゃうんですかね。
中:薪の力は凄いですよ。引き出しをうまく使い分けて調合しないとできない。油断してたら凄いところにいっちゃう。だから自分の着地点をしっかり知ってないといけない。
辻:李朝白磁も、もともとは雑器じゃないですか。今は美術工芸品として美術館に陳列されるようになっていますが。
中:貫禄ありますよね。雑器じゃないですよ。まあ安宅コレクション(大阪市立東洋陶磁美術館の中核)が特殊なんですけど。あれは普通の暮らしの中では見れない。でも李朝を作りたいんじゃなくて、健やかな、ややこしくない、華美じゃない、自然と溶け込むようなもの。韓国の焼き物とかアフリカの彫刻とか、どこか人工的じゃないもの。そういうのは日本や中国の焼き物にはない感じがする。土器に近いかもしれない。
辻:李朝時代のモノは、いわゆる作家が作ってるわけじゃないですものね。
中:名工はいたと思うんですよ。工房があって。王朝の窯もあったし。でも自由さというか、自然というか、人間だけ独立してあるんじゃなくて、何かと一緒になってるのってやっぱり最高に素敵というか。目指すのはああいう大きなものがいい。
辻:民族性もありますよね。韓国は大らかだし明るい。
中:物によっては螺鈿とか緻密なのもあるけど仕上がりはやっぱり大らか。中国みたいに人間離れしてないですよね。

辻:それにしても中本さんの切り替えはドラマチックですよね。白か黒か、0か100かはっきりしてる。
中:自分の時間は限られてるじゃないですか。目的地がなければ何もできないでしょ。今は焼き締めの時に実現できなかったことをちょっとずつ攻めてる感じ。やりたいことの視野が広がったような感じがします。
辻:まだまだ、白磁でやりたいことがあるのは素晴らしいです。
中:自分に飽きて辞めてく作家って多いんですよ。これからって時に何も作れなくなって。そういうの見てると切ない。
辻:モチベーションはどうやって保ってるの?
中:素敵だなと思ったものに自分がどうやって辿り着けるか。その道具が焼き物。とにかく自分だったらどうするかなと考えることの繰り返し。例えばファッション雑誌を見たら、安藤忠雄のコンクリート打ちっ放しの家が出てくるでしょ。そうしたら、そこでどんな人がどんな服を着て、どんな物を食べてるのか、その時どんな器を使ってるのか、妄想するんです。
辻:そういう想像、妄想が制作に繋がってくるんですね。
中:それが形になってくるんです。宿題ばっかり残ってます。
辻:でもたくさん作るけど、自分の作品に厳しいですよね。なかなかOKを出さない。
中:自分は才能ないし、センスないし、バランス感覚も悪いんです。完成度を上げるにはたくさん作った中から選ぶしかないんです。その方法しかない。妄想と選択です。ただそれだけ。

辻:金沢のお店には「ライフ」って名前を付けたんですが、ライフで思い浮かべることは何かある?
中:それが、高校の時の最後の作品が「ライフ」というタイトルでした。「キャラクター」を題材に何かのシンボル、メッセージを運ぶものを描くという課題で。テレビ番組を見ていて閃いたんですけどね。絶滅危惧種のキャラクターが学校の教室に生徒として座って人間との共存を学習してる絵を描いたんです。最初は「未来への学習」って名付けたんですけど、先生のアドバイスで変えました。
辻:それは何を言いたかったの。共存の大切さとか?
中:浅はかですよ。先生に呆れられるような。でも自分の気持ちだったかもしれない。キャラクターの中の1人が自分だったもしれないし。
中:あとライフと言えば、僕にとってはほとんど李朝の昔の生活かもしれない。どれだけ自然をどう取り込むか。人間だけじゃなくて、そういうものを取り入れた社会をどうつくっていくか。そうすればどんな家に住むべきか、どういう生活をするべきか、将来の形ができてくるかもしれないですね。そういう想像力って大事じゃないかな。
辻:最後に改めて金沢ではどんな作品が見られますか。
中:今時点で僕が思う、その生きる方向のちょっとは何か、新しい形ができてるかもしれないですね。まあ前回と比べて上手くなってるとか下手になってるかとか、そういうことは考えない方がいいかもしれない。
辻:作品が届くのを楽しみに待ってます。

<略歴>
中本純也(なかもと・じゅんや)1967年、大阪府河内長野市生まれ。大阪芸大工芸学科で陶芸を専攻。南米や欧州の焼き物作りに触れた後、大阪から和歌山に移住し、1999年から龍神村の自宅・工房で暮らし周りの器を中心に制作。
<旅のメモ>
金沢から龍神村まで片道450キロの道のりは、休憩を含めて7時間半のロングドライブ。昼は岸和田SAのストライク軒で和歌山中華そば。夜は中本家で豚のココナツミルク煮、庭で採れたカラフルな野菜のサラダなど理詠さんの手料理を中本さんの器でご馳走に。日本3美人の湯という龍神温泉に泊まり、翌日は京都に寄って李青、KAFE工船、ARTS&SCIENCE、Kit、まるき製パン所をハシゴしてから帰沢。
<編集後記>
一般的な磁器のイメージとは逆方向の、あの大らかで肉厚な器たちはどこから来たのか。木立に囲まれた半ばセルフビルドの家と野菜やハーブが育つ庭を見て合点がいきました。中本さんの焼き物は美しい暮らしの実践なのだと。「現代の民藝」。そんな言葉が浮かびました。(鈴木)
84th exhibition
nakamoto junya
2025.05.30 fri. — 06.29 sun.
●5/30(fri.) 31(sat.) 青山 APOCのパンケーキを中本さんの器で(詳細はこちら→●)
