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対談「lifeを探して」⑳「カウンターカルチャーとしての焼物」

対談「lifeを探して」20回目の相手は、岐阜県多治見市の陶作家でギャルリ百草オーナーの安藤雅信さん。ともに生活工芸の器を手がけ、作品づくりでコラボすることもある辻和美が、安藤さんの多彩な創作の歩みとその核心に迫ったロングインタビューです。
(対談は2026年7月、factory zoomer /lifeで行った。構成・鈴木弘、写真・大田和弥、factory zoomer)


辻:安藤さんは食器づくりをメインに彫刻とかお茶とか幅広く制作してますよね。器の制作もすごい数のバリエーションがあって、本当にオールラウンダーだなぁといつも感じています。一体どんな風にして自分のスタイルを見つけていったんですか? 
安:もともと小学校の頃から将来は音楽家とか美術家とか芸術畑に行きたいという思いがあって、音楽は好きだったけど当時は音楽と言えばクラシックしかなかったから美術かなって、高校2年から美大を目指したんです。多治見は焼物の町だから選択肢としては工芸もあったはずなんだけど、あの頃はファインアートが人気で美大なら誰もが油絵科を目指すみたいな時代でした。
辻:それで武蔵美(武蔵野美術大学)に入ったんですね。
安:最初は油絵を目指したけど、ちょっと違うなって気がして3年から彫刻に転向しました。当時の美大生は貸し画廊で個展して、公募展に出品して、どこかの企画画廊に拾ってもらうというのが通り道でしたね。僕は1浪して入ったけど同級生は3浪が中心で、彼らは技術も情報も持っててガンガンやるから、こっちは付いて行くのが精一杯で気後れしちゃって。卒業しても道筋が見えないまま1年だけ東京に残って、ジャズのバンドでドラムを叩きながら、絵画塾やったり、家庭教師やったりしてました。
辻:卒業制作の素材はFRP(繊維強化プラスチック)ですか?
安:そう、FRP。彫刻の学生はアルバイト先があんまりないんだけど、FRP屋さんには喜ばれて、そこで4年からバイトを始めて、仕事場で卒制を作って、大学行かないでずっと通ってました。
辻:美大生にありがちなパターンですね。
安:卒業した後もそこで1年働いて。でも音楽でやっていける才能がないことに気付いて、多治見の実家に帰って陶芸の研究所に入ったんです。
辻:それが一つの転機になった?
安:そのはずが、たまたま作ったオブジェが日本陶芸展の前衛部門で入選しちゃったんですよ。次の作品が美術手帖に載ったり、岐阜県美術館からも声が掛かるようになったり。
辻:それで自分は彫刻でやっていけるんじゃないか、って思ったんですか。
安:最初は民藝作家とか職人的な仕事にも憧れたけど、やっぱり彫刻に未練があって。これは現代美術の本場を見ないとダメだよなって、27歳の時にアメリカに行ったんです。知り合いの所に居候してニューヨークに2カ月ぐらい住んだかな。あとは西海岸で美術館巡り。
辻:それは何年の話ですか。
安:1985年。それで向こうでアメリカ人と会話すると、やっぱり禅とか神道とかお茶の話になるわけですよ。ちょうどニューヨークでブルースシンガーを目指してた同郷の知り合いから「浴衣着てブルース歌えって言われるんだけど、どう思う」って相談されて。これは結構、核心を突いてて、ネイティブな文化じゃないものに憧れてやっても結局ネイティブの人には勝てない、って言われてるわけでしょ。
辻:我々はアジア枠ですよね。
安:だから日本人としての何かを持ってないと世界で勝負できないな、って。現代美術も日本人はネイティブじゃないから。ニューヨーク近代美術館で日本コーナーに行ったら、並んでたのは北大路魯山人と民藝と根付だったの、その3つ。
辻:根付ね。私も見たかも。
安:日本の美術って工芸なの?って、すごいカルチャーショックだった。ここにいても仕方がないと、アメリカは3カ月で切り上げて。とにかく日本っていうものが体に染み込むまで何かやらなきゃいけないと思って、帰国してすぐお茶を習い始めて。お茶はいわば総合大学みたいなものだから、お茶を習えば色々学べるだろうと。お茶を熱心に習ううち、焼物に関心が出てきて。でもお茶は自分でお茶会をやらないと全容が掴めないでしょ。それには道具がいっぱい必要だけど、いちいち買ってたらお金がいくらあっても足りない、っていうんで作り始めたのが一つかな。あと、現代美術に行き詰まったんだ。アメリカから帰ってから色々やりながら銀座の村松画廊とか神田のときわ画廊とかで発表してた時代が30歳まであって。でもコンセプトありきが苦しくて作品が作れなくなったんだよね。


辻:その時代の作品は焼物でした?
安:最初はアルミニウムで、2回目から焼物。ハラアニュアルの候補になったり、岐阜県美術館の「土と炎」っていう企画展に出たり。1987年ごろまでは良かったけど、だんだん限界を感じて。ちょうどその頃「少年アート」っていう本が出たの。
辻:私も読みました。中村(信夫)さんが書いた本。
安:あれに衝撃を受けて。これはイギリスに行くしかない、って。あの本の中に経済とリンクしてるギャラリーは日本には5軒しかないって書かれてたでしょ。
辻:貸し画廊は悪の根源みたいに書いてありましたね。
安:その中の一軒に売り込みに行ったけど、相手にしてもらえなくてさ。でこれはイギリス留学するか、アートの題材を探しにインドのカオスを見にいくか、ってことになって。
辻:そこでどうしてインドなんですか。禅とのつながりですか?
安:あの頃はね、やっぱり本の影響が大きくて。横尾忠則のインド本読んだんだよ。仲の良い友達も2人インドに行ってたし。
辻:だからインドか。
安:横尾忠則が壁にぶち当たってから30歳ぐらいで行かないと意味がないみたいなことを書いてて。行ったはいいけど、ブッダガヤからデリーまで仏教聖地を巡るゴールデンルートを旅する途中で赤痢になっちゃって。高熱と下痢がひどくて、これは北の涼しい所で体を休めないとダメだと思って、ビートルズがヨガの修行をしたリシケシに行こうとしたら、フランス人から「あなたは仏教が好きだからダラムサラに行きなさい」って言われて。
辻:勧められて行き先がダラムサラに変わった? えー、簡単だねー。
安:事前にたまたまチベット医学の本は読んでいて、知らない地名だったけど、そう言うんならと思って。ダラムサラに着いたらそこに住んでいる日本人が声を掛けてくれて、日本食のパーティーに呼んでくれて。そこには当時、日本人が4人チベット仏教を勉強するために住んでいた。それで来た理由を聞かれたから「カオスを求めて」って答えたんだけど、話がうまく通じないんだ。
辻:カオスって言われても、ねえ。
安:「近代社会から漏れ落ちた混沌としたものです」って言ったら「そんなものはここにない」って、返されて。その中にすごく気になる人がいて一緒にいたら「カオスはお前の頭の中だ、お前が作り出したものだ」って。これは仏教でいう「空」のことを言ってるんだなと。それでここで少しチベット仏教を勉強した方がいいなと思ったわけ。
辻:あははははは、カオスはお前の頭の中だ!って最高だね。それで?
安:日本から英和と和英と仏教辞典を送ってもらって、ひたすら毎日読書。
辻:仏教の世界に入っちゃった。
安:それまでにも禅関係の本は読んでたけど、全然理解できなかった。チベット仏教の本はもちろん全部は無理だけど、すごく分かりやすかった。で、だんだん自分から何かが抜け落ちていく感じが分かるわけ。
辻:あーカオスが溶けていくー。
安:ビザが延長できる最長の半年間そこに滞在して、ひたすら仏教の生活を送ったの、自炊しながら。最初に言われたのは、朝起きたら瞑想しなさい、夜寝る前にも瞑想しなさい。朝の瞑想は、今日することを決めなさい、その動機を検証しなさい。夜は動機が正しかったか検証しなさい、1日あったことを検証しなさい。「善因善果」「悪因悪果」。悪い動機でやれば結果も悪いし、いい動機でやれば結果もいい。だから動機の検証が大切なんだと。それで自分が行き詰まってインドに行った原因はみんな自分の中にあったんだって気付いたわけ。有名になりたいとかね。そこからさらにネパールにも行って、結局8カ月いて帰ってきた。それで、日本に帰ったら、来た仕事は一切断らないと決めた。何でもやると。そうしたら焼物の注文が来るようになったの。陶器の壁画を作ってくれ、って話が来て、初めて窯を買って。器も作ってみようみたいな感じ。
辻:そこから器に繋がるんだ。


安:陶壁の仕事は下請けだったけど、一回やれば何百万かになるから、これで食べていけるなと思ったら、相手の会社が倒産しちゃって。それで実家に居候してまた塾の先生しながら制作してた。結婚することになって、妻に1年だけ現代美術を続けさせてくれって頼んで。
辻:やっぱり現代アートに戻るんだ。なかなか質問の答えに辿りつかないね。(笑)
安:実家に別宅があったから、そこに住んで1年やってみたけど結局10万円しか売れなかった。困ったなと思ってたタイミングに母が「番頭さんが辞めるけど、その後をやってみたらどう?」って。僕は大学で東京に出る時に家業は継がないって宣言してたし、親からそれまで後を継ぐように言われたこともなかったんだけどね。
辻:ご実家は陶磁器の卸問屋さんですよね。家業を継いだ経緯を初めて聞きました。
安:それが35歳になる直前、結婚して1年たった時で、絶対継ぎたくないと思ってたのをそこで受け入れたのね。で、料理屋さんから食器の注文をもらったり、どこかのお店の粗品の注文を受けたり。
辻:じゃあ扱ってたのは工業製品?
安:基本はそう。でも、その時に料理屋さんの和食器なら「俺でも作れるじゃん」って思ったの。
辻:そこから作り手としての歩みが始まったんだ。
安:まず懐石料理に使うような器は自分で作るようにした。工業製品の磁器ものなんかは別の窯から買ってきて。でもその経験がものすごく大きくて。工業製品の洋食器はデザインを一つ決めると、コーヒーカップからサイズ違いのお皿とかボウルとかスープ皿とか、50アイテムぐらい展開するわけ。しかもそれが定番としてずっとある。
辻:それが工業製品のアイテム展開ですよね。
安:5年後、10年後でも、補充したいお客さんの要望に応えられる。工業製品の考え方をそこで学んだね。それで器を作るようになって自分に課したのは、家業が 6時で終わって夕食の後、夜の8時から12時までは絶対毎日仕事するってこと。
辻:そうやって自分の仕事の時間をつくったんだ。
安:焼物の仕事をする。基本、注文をもらったものを作ってたけど、彫刻もあった。月に1回窯焼きしてた。
辻:作家としての制作ね。
安:写しが多かったから作家とは言えないかもしれない。だけど引き出物とかいろいろ注文をもらっても、百万円がなかなか超えられなくて。それで結婚して自分に起きる変化って、母の料理から妻の料理に変わることなんだよね。和食ベースじゃなくて現代風の料理になるじゃない。だから妻に合った器を作らないとダメだなと思って。
辻:奥様想いなロマンチックなスタートですね。
安:最初はノリタケの洋皿を手に入れたんだけど、これが使いづらくて。洋皿は最後に残ったスープがうまく飲めないし、結構重いし。かと言って和皿は料理に合わないし。工業製品は美味しく見えないし。なんか料理に合う器って意外とないもんだなって。当時はクラフト作家が結構いて、クラフト作家のものだったら合うんじゃないかと思ったけど、必ず何かちょっと手を加えてあるの。
辻:デコレーションがね。
安:そう、その装飾にちょっと違和感があって。だったら自分で作るか、って。1992年に結婚して、93年に家業を継いで、バブルは崩壊したけどまだ多少名残りがあった頃ね。男女雇用機会均等法が86年に施行されて、女性の社会進出が進んでたから、これからは料理はワンプレートの時代になるって直感してさ。
辻:ワンプレートがくる、って思ったんだ。
安:ご飯とかサラダとか肉とか魚とか、みんなワンプレートで食べる。お皿が一つなら洗う手間が減るし。その皿で和も洋も中も盛れたらいいじゃない。それでどんな皿だったらいいのか考えて、最初に思い付いたのが楕円だったの。楕円なら和洋中の既成概念から全部外れてるから。で、ちょっと深めでパスタも盛れて、カレーも食べられて、お肉も盛れるみたいな。「これだ」って、まず楕円のバリエーションをバーッと作り始めて。それでギャラリーに売り込みに行ったりした。でも最初はいいんだけど、伸び悩むんだ。「なんか一手間足りない」って言われて。それで、ミシン目入れたり、一筆染付を入れてみたり。
辻:デコレーションは嫌いじゃなかったっけ。
安:妻の明子に見せると、「一手間余分」って。じゃあどうしたらいいんだ、って。僕はタタラ(板状にした粘土から作る技法)の技術が好きだったから、石膏型にそった形しかできなくて、タタラで一手間入れるのは装飾しか思い付かなかった。
辻:ろくろじゃなくてタタラでやろうと思った理由は何ですか。
安:やっぱり石膏が技術的に慣れ親しんでたから。だから原型作るとか彫るとか、自分の学んできたことが一番いかせると。そもそも、ろくろは回転体でしょ。ろくろだと楕円や変形モノができない。で、発想が回転体になっちゃう。
辻:そっか、そっか。吹きガラスと同じだね。
安:それより一個一個違った方が面白いから、最初からタタラって決めてた。かと言ってその石膏を削る技術があったかというと、だんだん見つけていったんだけどね。
辻:写しから自分の制作を始めて、楕円で独自の方向を見つけて、でもそこでまた行き詰まるんですよね。
安:壁にぶち当たった。その時、日常に使われてる西洋のもので工業製品が作られるようになる前の時代のものが参考になるんじゃないか、っていう直感があったの。工業製品はロイヤルコペンハーゲンとか、いろいろ見てたし。それは違うって分かってたから。西洋骨董屋に通うんだけど貴族趣味のものしか置いてない。もっと民藝みたいな手仕事が残ってるものを探したけど、なかなかなくて。それで雑誌「太陽」の別冊で全国の骨董屋を紹介してて、それを見て回り始めたの。その関東編に「古道具坂田」が出てたわけ。
辻:そこからまた大きな変化が起きるんですね。


安:東京は家業の出張で年に何回か行くから、95年に坂田に初めて行ったんだよね。その時に坂田さんから期限切れのカレンダーとDMを頂いて。僕はまずカレンダーに衝撃を受け、明子はDMに衝撃を受けたの。明子は即座に「ここは半端じゃないセンスの持ち主だから連れてって欲しい」って。3ヶ月後に明子と1歳の長女を連れて東京へ。企画展をしていた古道具坂田へ行ったら、、奥さんの敏子さんが手伝っていて、明子は風呂敷包みに詰め込んだ自作を見てもらったわけ。その数ヶ月後に電話をもらってモン・サカタ20周年で一緒に展覧会をやることになって。それで転機になったのが 97年3月の同日開催で古道具坂田であったデルフトの白釉陶器展ね。絶対そこに僕の参考になるものがあるって思った。
辻:安藤さんの人生を振り返ったとき、大きな印を付けるならそこですよね。
安:そう。その展覧会の前日に行ったらもう10人ぐらい並んでて、坂田さんに先に見せてくれないか頼んだけどちょっと無理って言われて。それで初日の11時ごろに行ったら、もう8割9割売れてたかな。
辻:作品がもうなかった?
安:赤丸を付けて残してあるのもあったけど、買えるものは数えるほどしかなかった。でもデルフトの皿があったのよ。
辻:デルフトのあのリム皿ですか。
安:「これは俺を待ってたんだ」って思った。で3点買った。
辻:今も持ってます?
安:3点とも大事に持ってる。去年、兵庫陶芸美術館で「MINGEI ALIVE -いま、生きている民藝」っていう展覧会があって、アーカイブを出してくれって言うから、僕の初期の作品と一緒にオリジナルを出した。最近、そんな企画が続いたな。
辻:それで、そのデルフト皿から何を得たんですか。
安:リムが広い皿は当時、日本になかったし、裏側の作りがとても美しかったから、まずそのまま作りたいと思ったの。西洋と日本の焼物の作り方の違いは知ってたのね。日本は粘土で作って素焼きして釉薬かけて本焼きするって順番だけど、西洋はいきなり本焼きして生地を固めてから全面に釉薬をかけて焼くって。だけど、どこでどう浮かせて焼いてるのかが分からない。よく見ると裏側の縁に3箇所ちいさなピンの跡があって。後で分かったのはぴったりの大きさの匣鉢(さや、作品を守る耐火性の容器)に入れて焼くんだね。
辻:匣鉢?ですか。
安:僕は工業製品のようなアイテム展開をしたかったから、一つ一つアイテムごとに匣鉢を作ってたら莫大な費用が掛かるなと思って。それで西洋的な作り方は諦めて、日本の作り方で匣鉢に入れないで、同じように全面釉薬を掛けて、くっつかないよう浮かせて焼く技法にしたんだよね。
辻:浮かす、ってどういうこと。
安:日本の焼物は裏側は輪高台のつくりにして、釉薬は高台には掛けないようにしていた。焼いて棚板にくっつかないようにするためにね。その約束事を破って、表とか裏とか関係なく、全てを美しくしたいという思いがあった。彫刻をやっていたからかな。だから全面釉は絶対やりたかったの。みんながしている高台裏の釉薬抜きをしないでそのまま直に置いて焼いた方が歪みが出ないからね。B品が少ないんだよね。だけど僕は浮かせて焼きたいんで、釉薬をかけてから道具土っていうあんまり焼き締まらない土を接着剤でくっつけて、浮かせて、焼いた。
辻:それは企業秘密じゃないんですか。今では一般的な技法?
安:やってる人は少ないと思う。どうしてもB品が出る。その土が一個外れると歪んじゃうんだよ。土は窯の中で収縮するから、接着が甘いと外れちゃう。
辻:今も同じ作り方ですか?
安:やってる。だからB品が多い。でもそこは大事なところなんで。で、まず自分の技術でやりたいな、って思った時に、坂田の展覧会で青磁風の徳利が出てたんだよ、李朝写しの。李朝の青磁なら還元焼成をかけるんだよね。鉄釉をかけて還元かけると真っ赤な鉄釉が青く発色するの。だけどオランダにはそんな技術がなかったから、青い顔料を混ぜた釉薬を掛けて酸化で焼いたんだよ。ロクロの面取ではなく、型物の上に磁器でもなかったしね。朝鮮の土と陶工を持って帰れば同じものができるけど、それだと作れる量が限られる。だから自前の土と技術と職人で大量に作るために、白い土を探して青い顔料で色をつけたんだろうなと思って。でも、これは逆にオランダの素朴な個性になってるよなって。だからオランダの写しは、そっくりにろくろで作って西洋式の焼き方をしなくても、自分の技術で作れば単純なコピーじゃなくて、写しとしてちょっとズレたところの価値観が出るなと思った。
辻:技術のズレがオリジナルを生むってことですね。
安:だけど、タタラつくりに皿は向いてない。ろくろは水引きって言って水を使って回転をかけるから粒子が綺麗に揃い薄い皿でも落ちないの。それがタタラは型から外した途端にペタンとなる。うまくいっても今度は窯の中で落っこっちゃう。タタラで皿は無理だよ、って散々言われて。特にリムが大きいから。困ったな、と思って。その頃、イタリア在住の豊福知徳っていう人が書いた「愉しき西洋骨董」って本があって、17世紀のイタリア皿が載ってたの。オランダ皿と違ってリムは広いけど見込みがちょっと深いんだ。これだけの見込みがあれば補強になってリムが落ちないんじゃないか、と思って。
辻:それをヒントに作り方を探したんですね。
安:97年からそれを研究して。イタリア皿でね、できたの。落ちないようにできた。でもね、今度はリムが広すぎて使えないと言われて全然売れないの。98年に百草がオープンして、上の世代の人に怒られながらも、自分のギャラリーに自分の作品をこっそり置いたりしてたけど、本当に売れなくて。それでも諦めきれなくてやってたらオランダ皿が出来たの。
辻:ついにブレイクスルーですね。
安:突然。まあ色々イタリア皿とは違う技法を考えて。やってるうちに選択肢が色々思いつくじゃない。試行錯誤してるうちに出来たの。3年弱かかったかな。それで坂田さんのところに「出来ました」って持って行ったら、「あ、そう」の一言でさ。
辻:ちょっと拍子抜けですね。3年もかけたのに。
安:でもね、その1年後、新潮社から電話があって、芸術新潮で現代の器の特集を組むけど掲載していいか、って。坂田さんが安藤さんの器を推薦しました、って。それが2001年の3月で、4月号に載ったのかな。
辻:坂田さんはちゃんと見てたんですね。
安:しかもすごく使い込んであった。そこからワーッと注文が来るようになって。女性誌も取材に来るようになった。そうすると「もうちょっと小さいサイズないですか?」とか色んな注文が来て、こっちとしては「待ってました」って感じだよね。技術は確立してるから、大きくても小さくても大丈夫。コツを掴んだからね。
辻:量産が可能な技術だったんですか。
安:量産に向いてるものと新たに考えなきゃいけないものとあったけどね。デルフトの展覧会の時に坂田さんがデルフトの白釉だけを集めたオランダの本を下さったの。白黒写真だったけど、すごいバリエーションがあった。オランダ語の辞書を買って、それを参考にまず写しを作り始めて、日本の家庭に合うサイズ展開にしたり、形を変えたりして、一気にバリエーションを広げていった。
辻:快進撃が始まるわけだ。
安:新作がもう凄まじい勢いでどんどん思いついちゃう。
辻:それが何年ごろ?
安:2000年だね。ゼロ年代はもう一気に新作、とにかく早くバリエーション展開して市場をつくりたかった。


辻:手作りのものを工業製品のレベルに持って行ったのが生活工芸の特徴の一つで、安藤さんはそのトップランナーだと思うんですけど、生活工芸をどう捉えてますか。
安:基本カウンターカルチャーだと思ってるんだよね。それは何かというと、主流があって、その主流に対してそうじゃない道もあるよって。アーティストはそれが見えるタイプだと思う。こういうのもあるんだよ、こういう考え方したらまた違うんじゃないとか、もっと良くなるんじゃないって、その隙間だったり周辺だったりが見える。それがカウンターカルチャーだと思うんだけど、当時の主流が何かというと、まず工業製品と伝統工芸、オブジェ焼が圧倒的に強かったよね、90年代。それと手仕事のすごくデコラティブなもの。
辻:巨大な作品とか、アメリカンクラフトとか。
安:それに対して、工業製品的に使えるけど、毎日使っても同じ器に見えなくて、和洋中のどれを盛ってもうまく合って、飽きがこないもの。そして5年後、10年後でも補充が効くもの。工業製品的な発想を持ちつつ、手仕事の良さもある、っていうのが巨大な隙間として見えたわけ。当時は例えば鍋とかタオルとかスリッパとかに必ず花柄が入ってたり、安易に考えたようなデザインしかなかったじゃない。まず工業製品に対する不満があり、手仕事に対する不満があって、「こういうのがあったらいいのに」っていう、ある種のカウンターカルチャーとして僕はやり始めたんですよ。
辻:カウンターカルチャーですか。
安:具体的にこれっていう思想があるわけじゃないんだけど。ただ、あの当時こういうものを求めてる一定の人たちがいる、っていう確信があった。雑貨ブームもあったよね。根底には日本の無印良品とか、フランスのデュラレックスとかの影響があったかもしれない。「なんでもないけど、なんかいい」っていうような。そうしたものの手仕事版が僕にとっての生活工芸かな。
辻:確かに欲しいデザインのものってあんまりなかったですね。
安:それは多分、作家よりも使い手が渇望してたと思う。工芸畑から来た作家は工芸の価値観やヒエラルキーがあるから、陶芸なら織部とか志野とか、あるいは超絶技巧とか巨大化したオブジェとか、そっちを目指したと思うんだけど、僕みたいに外から入ってきた人間はやっぱり自分の生活っていう観点から見て、「こういうのがあったらいいのに」っていう思いがある。強いて思想という点で言えば、自分の生活から見た普段使いのものを手仕事で作る、っていうのが、生活工芸の初動的な動機じゃないかな。
辻:そうですね。生活工芸で生き残ってる作家は皆んな、それぞれの本流から出てきた人たちじゃないですよね。
安:その共通点は、ものすごく大きいと思う。
辻:確かに。安藤さんも違うし、三谷(龍二)さんも違うし。
安:それで自分の作品を扱ってくれる店がないから、自分で店を出して、文章も書かなきゃいけない。なぜこういうことをやるのか分かってもらうために。
辻:自分のものをちゃんと見せてくれる場がなかったんですよ。それなら自分でやっちゃえ、って感じで、皆んなお店を作りましたよね。
安:生活工芸とお茶も同じ図式だと思っていて。利休は信長の時代まではお茶を教えるトップの人で、信長は唐物、中国の茶碗を今なら何億という価値のものを戦功のあった武将に褒美に与えたでしょ。利休はすごくフォーマルなお茶をやってたんですよ。
辻:はい。
安:それは有産者、お金を持ってる人しかできなくて。利休は堺の商人だからできたわけ。で、秀吉の時代に変わった時に、お金のない人たちもお茶をやり始めた。それまでのフォーマルなお茶「本数寄」に対して「侘数寄」って呼ばれるお茶をね。もともと侘数寄も利休の師匠の頃からポツポツ現れていて、利休自身も気になってはいたけど、信長に仕えてるから本数寄をやらなきゃいけない。秀吉は農民出身だから分かってくれるだろうと利休も侘数寄を始めたんだよね。秀吉は誰でも参加できます、どんな道具でもいいですよ、って言って北野大茶会を開いたでしょ。
辻:秀吉は金色の茶室を作りましたね。
安:あれは利休に対する当てつけだと僕は思っていて。利休は仕事としてプロデュースしただけじゃないかな。侘茶って、ただ侘びた道具を使うことだけじゃなくて、「四民平等」と言って階級は関係ないですよ、とか色んな思想が入ってるのね。で、それは本数寄に対するカウンターカルチャーで、本数寄を知ってるからこそ成り立った。
辻:利休さんは主流から始まってカウンターに行ったんだ。
安:それは古道具坂田にも言えて、坂田さんは古美術業界に1年だけ居て、侘びを始めてるんで、やっぱりカウンターカルチャーなんだよね。僕も現代美術だったり、工芸も見てきて、そのカウンターカルチャーとして生活工芸を始めてる。だから生活工芸の中にお茶があるか、って言われるんだけど、もう戦国時代に大きな先例があるわけよ。生活道具を使ってお茶をやるっていう侘数寄の様式を利休が確立してるんだから。生活工芸とお茶って、すごい近い距離にあると思う。特に中国茶と相性がいいのは、日本の茶道ほど様式が確立されてないから、生活道具をそのまま流用できる。もともと文人趣味って生活道具、例えば書道の道具でお茶を飲むとかね。見立ての文化が文人趣味にあるから相性がいいんですよ。だからお茶は非日常だから生活工芸と合わないんじゃないか、っていうのは大間違いだと思う。


辻:それで安藤さんは抹茶のほかに中国茶やったり、コーヒーやったり、喫茶文化だったり。色んなものを平等に推してる理由は何ですか。
安:20代でアメリカに行った時、日本のネイティブな文化を持ってないと世界で戦えない、ってまず思ったじゃない。でも日本のネイティブな文化って定義が難しくて、島国だから外から入ってきたものをうまくアレンジメントして作り上げたものが多いでしょ。でもそのアレンジメント能力が半端じゃなく、日本を象徴していて、独自のものに変えていく。お坊さんが持ってきた眠気覚ましの抹茶が茶道っていう様式になり、コーヒーにしても大坊(勝次)さんたちがネルで淹れる喫茶文化を作り上げた。
辻:アレンジが日本文化の大事な一つ、ってことですか。
安:そうです。だから「これは私の国のオリジナルです」と言って持っていかれるのはどうかな。喫茶文化として様式化し、総合文化として完成度の高いものに日本が育んだでしょ、っていう証拠を残さなきゃいけない。それで本を作ったりしてるの。茶の湯の喫茶文化っていう奥深いものがあって、それを応用することでコーヒーも中国茶も喫茶文化になり得ると。
辻:抹茶をやってた安藤さんが、いつの間にか中国茶をやってて、不思議に思った時期があったんですよ。あれは抹茶のアレンジとしての中国茶だったんですね。
安:なぜ日本の作家が中国で人気が出始めたのか、すぐ理由が分かったから。茶道のいいところを中国茶に取り入れて日本で育んだ方が面白い文化になると思ったの。
辻:日本人が中国茶の新しい流れを作っていかなきゃいけないと思った、ってことですか。仕掛けた、ってことですね。
安:そう、仕掛けた。確信的に。いかにバリエーション展開するか、あったらいいなを全部焼きもので作ってやろうと思ってたからね。だって誰もやってないんだから。
辻:また、大きな隙間?穴?がみえたんですね。中国にもなかった。今じゃ有名な話だけど、安藤さんのミルクピッチャーが茶海になった、そのストーリーも面白いし。
安:さらに考えてコピーしづらいものを作ろうと思って。回転体だとすぐにコピーされそうだったから、絶対コピーできないだろうと輪花を作り始めて。脚がついた高杯を作った時も仏花器に似てるからダメって言われたけど、すごい人気出たし。くりぬきの茶盤もそう。
辻:この中国茶での展開はまだ続きそうですか。
安:日本の茶道とのハイブリッドはまだできてないんだよね。茶道から取り入れたいのは掛物と花とお菓子、この3つ。中国ではまだお菓子をお茶のお供として認めてもらえない。台湾でもその傾向があるね。
辻:そういうお茶会を開く時に心がけてることは何ですか。
安:最初の頃は会話で盛り上げてたけど、大坊さんのコーヒー会をやった時、大坊さんは一切喋らないんだよね。スタッフの会話も禁止されたんですよ。それをずっと見てたんだけど本当に美しくて、何も喋らなくても。それから僕も1煎目、2煎目はほぼ会話しないで、3煎目ぐらいからちょっと話すとか、会話の量を一気に減らして、無言の時間を愛おしむような方向性かな、今は。掛物は壁に釘を打てないとか会場の制約でできないこともあるけど、花はだいたい生けてる。抹茶、コーヒー、中国茶、ハーブティーもやりたい。この間、韓国で4種類をお出しする茶会をやったけど、道具も毎回変えるから大変だった。

2017年 factory zoomer /gallery 展覧会


辻:これからの生活工芸についてはどんな風に考えてます?
安:なんでもないものの中に美を見つける、っていうのは誰にでもできるものじゃない、っていうのはあって。自分の中の目標としては持ち続けてるけど、生活工芸のこれからを考えた場合、そこに拘ってると自分を苦しめるだけになっちゃうんで。生活工芸の本質は最初に話したように、やっぱりカウンターカルチャーなわけだから、アーティストは社会の周縁にいて、中心に向かって「それおかしいよ」とか「こういうのあるよ」とか言い続けるものだと思うんだよね。それで社会がズレて周縁が中心になっちゃった時は、アーティストはそこからまた周縁に行く。自分のポジションが確立したらそれで良かったじゃなくてね。それによって裾野が広がって、新しい物の見方、価値観ができるっていうのがカウンターカルチャーの要素だから。
辻:素晴らしいなー。実はそんなこと考えてたんですね。いつも、ふざけてばかりだから気づかなかった。
安:僕も辻さんも、もともとアートから入ってるからさ。あの頃の延長というか、その時の精神性を今に置き換えたら絶対に違うものができると思うんだよね。
辻:私は今回、百草での展覧会で、涙の作品を一つ吊るしました。あれは、現代美術に憧れた時代の名残りなんですが、百草でお茶会を行なったときに、天井から吊るさせていただき、日本人が、今中国茶という長い歴史、大きな流れに一滴を落としているという意味です。売れましたよ。
安:そこに意地を感じた。あれは売れても売れなくても出すことに意味がある。初心を表してるし、意地を表してるんで、大事なこと。それでね、昔「もしドラ」って野球部の漫画が流行ったでしょ。あのドラッカーの「マネジメント」という経済学の本に、ライバルが現れて売り上げが60%になっても相手も60%だったら足して120%になって業界としては広がってるから、それを喜ぶべきだ、って書いてあるの。
辻:そうなんですね。
安:今の生活工芸の現状がそれだと思うんだよね。若手がどんどん出てきて、僕らが売り上げを伸ばすのは大変なんだろうけど、業界としては確実に成長してる、っていうのはある。それを喜びつつ、僕らがやらなきゃならないのはやっぱり作り続けることだよ。定番も新作も。かつては小説家やアーティストは60歳過ぎると文豪とか大作家とか言われたけど、戦後世代の文化は違う。あの村上春樹だって文豪なんて呼ばれない。坂田さんも最後まで「若手に負けたくない」って言ってたし、おそらく村上春樹もそうだと思うんだよ。これは作り手の性(さが)というか、時代の運命だよね。
辻:やるっきゃない、ですね。
安:そう、やるしか。
辻:やっぱり安藤さんの話は元気が出ます。
安:僕、一番大事にしてる言葉が老子の「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」って言葉で、水は人々を豊かにしながらどんどん下へ下へと落ちていく、ってさ。それは絶対権威にならないってこと。坂田さんとか、細野晴臣とか、そうでしょ。
辻:私が好きなのは、実るほど首を垂れる稲穂かな、ですね。それで金沢の展覧会ですけど、どんなことを考えてますか。
安:辻さんから薪窯の白磁、って提案があったじゃない。オーダーを受けて薪窯の修理をしたところ。
辻:やったー!うれしい。ぜったい面白いと思うよ。安藤さんの今のシリーズをそのまま薪窯で焼くの。
安:目標は10時間だけど14時間ぐらいかかるかもしれない(20時間掛かった)。磁器のものも今、一緒に作ってるんで、一発でうまくいくかどうか分かんないけど。新しい釉薬と磁器で試しにガス還元で焼いてみたら、なかなか良かった。中は釉薬かけて、外は焼きしめの部分を残したの。真っ白なんだけど、山土を少し混ぜたから、ちょっと表情があって。縦にちょっとテーパーかけて。焼きしめでも当たりが優しいの。磁器は吸水率ゼロで水を吸わないから、飲んだら多分、味も美味しいはずだし。
辻:いいですねー。出てくるのが楽しみだなー。中国茶の道具は入ってますか。
安:今回は食器が多いかな。中国茶関係では茶杯が入るよ。磁器は歪みやすいんで、タタラには向かないとされていて。ほかには茶入れもこれから作ろうかな。まあ1テーブル分ぐらいは磁器の中国茶道具を出せると思う。うまく焼けたらだけど。
辻:新境地ですね。安藤さん、そういう自然のもので焼かないのかな、ってずっと思ってたんですよ。ヒエラルキーでいったら一番上だから。(笑)それで最後の質問ですけど、「ライフ」という言葉から思い浮かべることは何ですか。
安:生活工芸プロジェクトの第2回に声を掛けられて、どういう風に英訳したらいいか考えたじゃない。あの時、辻さんはデイリーライフって提案してたよね。だからズーマの店にライフって付けたと聞いて、これは生活工芸を一言で表す言葉だなと思った。
辻:ファクトリーズーマ/デイリーライフだと長過ぎるから、ライフだけにしました。
安:なんか僕は工芸界に対する主張がライフという言葉に表れてると感じたけど。
辻:ありがとうございます。でも、私は残念ながら、安藤さんみたいな確信犯ではないんですよ。どちらかというと感覚派でして。あと、私が聞きたいのは、安藤さん自身、ライフと聞いたら何が浮かびますか?
安:さっき中心と周縁の話をしたけど、子供の頃からいろんなコンプレックスが強くて。例えば僕は保育園だったのね。当時保育園っていうのは共働きの家ってことを表していて。で、幼稚園に行ってる子は母親が専業主婦の家なんだよね。だから幼稚園に通ってる同級生にすごいコンプレックスがあったりして。
辻:そんなことでコンプレックスを感じてたんですか、面白いね。
安:そういう風に感じたの。だから他の人が気付かないことに気付いちゃう。それがアーティストとしての根本になってるんで。常に周縁から眺める癖がある。時代の波に乗れない、っていうのはそこ。
安:だから僕のライフは多分、普通の人とちょっと違う。ひねてる、って言えばひねてるかもしれないけど。それを幸にポジティブに転換する何かを与えられてるんだなと思って。気付いたことをただショボンとするんじゃなくてね。
辻:そうですよね。
安:それがエネルギーになったり、何かのヒントになったりしてる。まあ受け入れるしかないな、って。だからとにかくネガティブなことは口にしない。
辻:禅の教えでしたっけ?
安:気付いたことをいかにポジティブに転換するかというのがアーティストの仕事。それが僕のライフかな。


<略歴>
安藤雅信(あんどう・まさのぶ)1957年、岐阜県多治見市で陶磁器卸商の家に生まれる。武蔵野美術大学彫刻科を卒業後、多治見で焼物を学ぶ。現代美術家としての活動、インドでのチベット仏教探究を経て、94年から焼物制作を生業とし、オランダ皿など定番となる日常食器を数多く手がける。古民家を移築して98年にギャルリ百草を開く。2000年に若手作家のためのレンタル工房「MAVO」を開設。著書に「どっちつかずのものつくり」「茶と糧菓」など。


<編集後記>
自他ともに認める「どっちつかず」は、人並み以上の探究心と高い柔軟性の表れなのでしょう。主流に対するカウンターからの視点と生活者としての提案という話を聞いて、安藤さんが生み出す形の素のようなものに触れた気がしました。(鈴)




94th exhibition

ando masanobu

2026.09.11 fri. — 10.12 mon.

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