interview
対談:lifeを探して⑫オオヤミノル「料理としてのコーヒー焙煎」
2025.08.11
interview
対談「lifeを探して」の12回目の相手は、ダークローストのネルドリップでコーヒー好きにファンの多い焙煎家のオオヤミノルさん。8月下旬からの「tea or coffee」展を前に、辻和美がオオヤコーヒの美味しさの秘密に迫りました。(対談は2025年7月上旬、京都市のFACTORY KAFE工船で行った。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)
辻:オオヤさんにはfactory zoomerにコーヒーを卸していただいて、前のお店の立ち上げ時から大変お世話になっています。豆を焙煎していた京都・美山のお宅までお願いに行ったのはもう20年も前になるんですね。オオヤコーヒと言ったら今では日本でも5本指、いや3本指に入るぐらい有名になったわけですけど、そもそもどうしてコーヒーの道に入ったんですか。 オ:ザクっと言うと、現金収入を得る可能性が僕にはもうコーヒーしか残ってなかったっていうことです。要するに何も考えずに音楽をしながら、喫茶店をやってる中で子供ができて、やっぱりちゃんとしようみたいな。スタートはそこです。なんか急に変わった、かわいすぎるから。この息子と犬って本当可愛いっていうか、もう何でもやめてやろうと思いましたね。食えないのに音楽やってるお父さんよりも、ちゃんと食えた方が(家族に)いいとこ見せられるようにも思ったし。 辻:それでどうやってコーヒーの焙煎をビジネスに? オ:まず先代のマスターから引き継いだパチャママという喫茶店をやめました。行くところのない若い子とか美大生とかのシェルターみたいな店でした。いい喫茶店で、惜しむ人が結構いたんですよ。当時1つのモデルケースとして六曜社の奥野修さんっていう人がいたんです。彼はもともとミュージシャンで、僕らの憧れの人だったんで。でもお店って誘惑が多いし、なんか遊びの場所になっちゃって。だからやめて。それでそろそろ大学を卒業して働くような人たちが「次、何やるの」って聞くから「コーヒー焼こうかな」って。そしたら初めなんか適当に「10年分買うわ」とか言ってくれて。そういう子たちが5、6人いたから「じゃあお金もらっとくわ」って先払いでもらって。その時は何も考えてなかったんだけど、今カリフォルニアとかでコーヒーのお店がどうやって出来上がっていくか見てると、それは真っ当なことだったんですね。 要するに自分の好きな人がこれから頑張る時に投資してくれたっていうふうに思うと。 辻:まあ確かに他の国ではスポンサーとか多いですよね。 オ:僕らからすると結構ビジネスライクに聞こえるんだけど、自分が気に入って住んでるエリアに、人とのコミュニティーがあって、ちょうどいい距離にコーヒーショップがないなら、誰かやりたい人がいたら少しお金出すけどみたいな話。彼らは自分の部屋をよくするみたいな感じでお金を出してるんですよ。 辻:今のクラウドファンディングみたい。それで出資してもらった人には焙煎した豆を送り続けたわけ? オ:そう。と言っても10万は貰えないから、5、6万貰っとこかみたいな感じで送ってたんです。彼らは東京に行って、例えばマガジンハウスに就職して、そのうち友達も買いたいとか取材したいとかいう話になって、ちょっとずつですけど始まっていったんです。 辻:それは私が美山に行った頃ですか。 オ:そう。当時は珍しいことだったんですよ。山の中でコーヒーを焼いて町に売りにくるみたいなのは多分1人もいなかった。今なら1つの物語としてブランディングに使えるけど。僕らはもっと切実で、焙煎機を買ったはいいけど煙を出したら近所から怒られるし。まあ家賃は安かったし、人との出会いとかもラッキーでした。買いたい、お金を出したいっていう人が僕を有名にしてくれたっていう側面もあります。それは若い時には気付けなかった構造ですね。 辻:みんなオオヤさんの才能に惚れ込んだんだね。 オ:そうですね。 いや、でもね、もうただ面白かっただけで。僕はでも必死で美味しくした。美味しくするぐらいしか恩返しがないと思う感じだったので。だからそのプレッシャーがあって一生懸命やり続けられて感謝しております、うん。
辻:オオヤさんは昔よく、「コーヒーや喫茶店はただの業者扱いされて下の方に見られてたから、コーヒーの立ち位置を上げたい」って言ってましたね。そのためにこれまでどんな努力をしてきたの。 オ:よく覚えてますね。1つはレクチャーですね。コーヒーの味をどういうふうに見るのかとか、なんでそういう味がするのかとか。僕らはこういう材料をこういう認識でこういうプロセスで焼いてるんですよって。それってコックさんと一緒でしょ。シェフと一緒のことをやってるんですよ、っていうのを分かってほしいの。それはもう20年近くかけてやってきてます。あとは自分たちのショップとかイベントに出た時に全くの素人の人でも「うまい」って言ってもらえる作り方は分かってきて。例えば濃いけども飲めるコーヒーとかね。ちょうどいいっていうのは単純に濃度の問題じゃない。飲み方や好みは人それぞれだけど、僕は美味しいっていうのは相対的なものじゃなくて、1点に集中してるような感じがあると思ってるんです。何かキモみたいなものがあって、それはそんなに人それぞれじゃない。だから、そこに向かっていくために濃くないとダメだと思うし、商品の名前が違ったら味が違わないとダメだと思ってる。そういう設定をすることでこの店はちょっと違うぞとお客さんに思ってもらえるような努力はしてます。あとは何かな。ちょっと偉そうにすることかな、立ち位置を上げるために(笑)。ちょっと偉そうだと自信ありげに見えるでしょ。 辻:オオヤさんを見てると、工芸とかファッションとか、コーヒー以外の分野の人たちと交流している印象があります。 オ:それも立ち位置を上げるための努力かもしれない。要するに目で見るものは分かりやすい、一段階目のハードルが低い。それに対して味で感じるものは分かりにくい、一段階目のハードルが高いんです。美味しいって抽象的だから裏付けがないみたいな。目で見て美しいと感じるものはある程度理解しやすい。それでこの美しいものを作ってる人が僕のコーヒーをいいと思ってくれてる、僕たちの仕事を認めてくれてるっていうのが必要だったと思います。初めだけの問題でその後はね、どっちも深い世界だと思うんですけど。
辻:私たち生活工芸の作家とも付き合いがありますよね。 オ:この間、松本のクラフトフェアで「不完全の美」をテーマに展示をしてましたけど、工芸家の中で最初にちゃんとお付き合いさせていただいたのは辻さんなんですよ。よく勉強させてもらった中で思ったのは、美しいものの中には不完全の美とか未完成の美っていうものがあるけど、味には一切ないんですね。音楽にも下手ウマってあるけど、舌には下手ウマはない。幼い良さとか若い武器とかは。それは音楽にも絵画にも工芸にもあるだろうし、室町のお茶の人は好きだったと思うんだけど、味には一切ないんですよ。ただ、不味いってことですよね。 ちょっと話が脱線しますけど、お茶とワインっていうのは生きてる味の飲み物なんですけど、コーヒーとウイスキーは死んでる味の飲み物なんです。だいたいコーヒーもウイスキーも正直に味を説明すると苦いとか渋いとかエグ味があるとか、まずい要素でしか説明しないんですよ。それまずいの?って聞かれたら、いや、これは美味いんだよね、なぜかみたいな。でも、お茶はフルーティって言ったら本当にちょっとフルーツだし、花のにおいって言ったら本当に花のにおいがするじゃないですか。ワインもそう。生かすものっていうのは美の表現に近いし、その中には不完全さみたいなのも美味しさとかに捉えられるようなんですけど、コーヒーとかウイスキーの世界っていうのは、そういうのはない。だからお茶とコーヒーは兄弟のように語られるけど、正反対だなって。僕はいつもお茶とかワインがうらやましいです。表現が具体的だから。 色もあるし。僕らやってもやっても黒ですから。
辻:じゃあオオヤコーヒが目指すコーヒーの味っていうのは? どういうのが美味しいって思ってるの。 オ:僕のポイントはどんなに濃く濃度を上げても口に刺さらないというか、染み込まないようなものが美味しいと思ってるんです。それは味がどうだとか、構成がとかいうよりも、どんだけ濃度を上げても初め口に油がついて味を感じないみたいな。「遠い味」って言ったら分かりやすいのかな。そういうものを目指しました。具体的には濃度をある程度以上あげると塩味がする。この2つはすごく僕らのコーヒーの中で大きなポイントです。それは浅く焼いたものも深く焼いたものも、濃度が上がっても口に染み込まないようにする。飲んですぐ味がウッてくるようなものじゃなくて、ちょっとオブラートに包んだ味みたいな。これはコーヒーに限らず、どの食材でもそういう傾向があると思ったし、あともう1個は凝縮されたものはそのコーヒーだったらコーヒーの味以外に塩っぽい味がする。 辻:どんな食材でも? オ:お茶もだから、とても凝縮されたいいお茶はちょっと塩味を感じるし、いい加工されたお茶はめっちゃ濃くしても口に刺さらない。多分、塩味はアミノ酸だと思うんです。その口に刺さらないっていうのは、もとから味の構成要素がすべて丸い構成要素になってて、まるで酸っぱいっていうとんがったものも、三角の角が丁寧に丸まってるんで、それが凝縮すれば凝縮するほど一体化するんですよね。例えばカルピスも薄かったら酸があるのに、原液飲んだらすごいまろやかでミルキーみたいな感じで。要するに味の構成要素の間に水が入ってきて距離ができることで逆に刺激的なものになっていくみたいな。うまくできてるものは凝縮すればするほど、口に刺さらないけども余韻がずっと続くみたいなものになるっていう、それを目指してます。 辻:味を見極める舌はどうやって鍛えたんですか。 オ:別に小さい頃から蘊蓄聞きながら美味いもん食ってきたわけじゃないんです。そんな家じゃなかった。でも舌ってそんな鍛える必要はなくて、美味しいっていうのは味の他に権威とか何か見極める時に邪魔なものがありすぎて、今までの教育で。ただそこにはちょっと哲学みたいなものがあって。ポテトチップスがなんぼでも食えるって言った時に、それが1ヶ月食べなかったからなんぼでも食えるなのか、今まで食ってたのと違うポテトチップスだからなんぼでも食えるのかで、「なんぼでも食える」の差は大きいみたいな。そういう変なロジックが昔から好きでした。だから(この仕事は)自分に向いていたと思います。「感性」って言われるのもあんまり好きじゃない。感性じゃないけど、味の構成、アミノ酸とか、メイラード 反応とか、タンパク質が変わっていくと甘くなるとかいったことをしゃべるんです。美味しいって不確定要素が多くて相対的になる。だから美味しいものって何だろうっていつも考えてます。コーヒーも構造主義みたいなもので、構造の配列において美味い不味いが変わっていくんだと思った時、じゃあ細かくいってみようかと。実に馬鹿馬鹿しいけどキュウリにハチミツをかけたらメロン になるみたいな話じゃないですかそれって。
辻:カフェ工船で出してるトーストも一見ミスマッチなんだけど食べると美味しい。その味の実験がすごく面白い。 オ:ありがとうございます。僕らは今のアメリカのスペシャルティコーヒーみたいなトレーニングはしてないです。さっき言ったように美味いものはコーヒーも寿司も全部、凝縮したら口に刺さらない作り方になってるっていうのと、塩を使ってなくても塩味があるっていう2つ。だからトレーニングよりも結構、頭でいってる。想像の頭で。必要のないトレーニングをすると、ある1つの知識の方に向いちゃって、オリジナリティーが発揮できなくなるんですよ。 辻:10年ぐらい前かな。サードウェイブ、第3世代って呼ばれる酸っぱいコーヒーが出てきたじゃないですか。私は苦手だけど、みんなは美味しいって言う。あれはどう思います。 オ:これ面白いですね。要するにカッコいいかどうかの話だったと思うんです、あれって。酸っぱいコーヒーが好きだろうが嫌いだろうが、カッコいい人たちと付き合ってるということは、これは美味いっていうことで。だからニューヨーカーがコメ食えないくせに、寿司は大好きみたいなね。食い手の方が欲望じゃなくて、知識で食い出すみたいな。うん、これはトランプは、トランプの話は今しなくていいですね。 辻:サードウェイブのコーヒー飲んだ時にどう思いました? 雑誌の仕事も兼ねてカリフォルニアにも行きましたよね。 オ:さすがだなと思いました。日本でも昔から浅焼きのコーヒーってあったけど、それの問題点をすべてクリアしてたんで。ふつう浅く焼いた酸っぱいコーヒーは、その代わり香りはたくさん残るんです。だから香り重視の人は味は酸っぱく、浅く焼いてる人がいっぱいいたんですけども、渋みとかちょっとしたエグ味とかも出てしまう。水分率11%の乾物の豆に火を入れて、コーヒーとして飲めるものまでもっていくっていう作業の根本のやり方が、日本人が作ったものでは、浅焼きでは少し問題が出てくる。 要するに、渋みを取ったら、今度は個性が没個性になるとか、材料としての植物性が死んじゃうみたいな。それをアメリカ人の気質っていうのか、焙煎の技術は高いなと思いました。それでうちは調べてすぐそのやり方を取り入れました。「エースメソッド」って言うんですけども。アメリカのスペシャルティコーヒーアソシエーションの中の焙煎研究機関がエースって言うんです。 辻:そのへんオオヤさんはすごく柔軟ですね。今まで濃い深焼きで押してたのに、「俺は浅焼きはやらない」って言わないところが。
オ:ラッキーだったのは、深焼きが美味しい、浅焼きが美味しい、その真ん中が美味しいって、いろんな派があったんだけど、僕は「別にどれも美味くないじゃん」って思いながらコーヒーやってたんです。「ほっぺが落ちるようなコーヒーないじゃん」って。それをもうちょっといけないかなと思ってたし。あと植物を生で出すのも、焦がし切るのも材料の使い方として問題があるなと。そんな料理人はいないよね。さっき言ったように分かりにくくて殺す料理だから「俺のコロンビアのベスト焙煎ポイントはここだ」みたいなことがあり得るのかな、みたいな疑問がどんどん出てくる。ちょうどそんな時に辻さんと出会って、辻さんのギャラリーを見て、僕が知ってる職人系の作家とは違う現代美術の話もしてくれるスタンスに触れたんですよ。だから結構その臨機応変に仕事ができるようになったのも辻さんのお陰なんです。 辻:えー、本当に? オ:そうですよ。作品を入れる箱も、包む紐も、もう全ての方向に向かってベストを尽くしてる、って言われて。じゃあ僕らが1杯のコーヒーに対して全方向でベストを尽くすってどういうことなのかなって。自分のプライドが全方向にエフェクトして、自分のガラスに触れる全てのものをデザインしてるっていう話をしてくれましたよ。それを僕らの仕事に当てはめたらどうなるのか考えたら今の形ができたって感じです。色々パクらせてもらってます。 辻:そう言えば、ここ本当は「FACTORY KAFE工船」って名前でしたね。なんで頭にFACTORYを付けたんだろうって不思議に思ってた。「KAFE工船」で十分なのに。 オ:本当にズーマをパクったんです。ちょうど売り上げが上がってくる時期にね。どこまで1人でやるんだろうって考えて。お客さんはコツコツ1人で焼いてる方が喜ぶんだけど。大きい焙煎機を買うと「薄利多売=悪」みたいなイメージがあって。辻和美とファクトリーズーマ。要するにこれって内山田洋とクールファイブだ、バンドじゃんかって。音楽なんかやったら家族に迷惑かけるからバンドなんて2度としないと思ってたけど、これならできるじゃん、名案だと。バンドで行こうと思って、オオヤミノル&カフェ工船。
辻:それで25年ぐらいかけてコーヒー屋さんの立ち位置も変わってきたんじゃない? 振り返って変わったなと思うことは。 オ:1つ言えるのは、やった分だけやってない人より確実に実力はあるっていう自信ですね。同世代の人と比べて僕の方がちょっと深くやってるなっていう。自分がものすごくやった自負はある。話してても僕の方が経験値に基づいた知識が多いし、科学的エビデンスに基づいたテクニックの凝縮したアメリカのスペシャルティコーヒーの人たちとも議論ができる。商売しながらだから、彼らほどエビデンスを追求できなかったにしても、20年やってきた分はよく知ってる。あとはそんなに変わったことはないですね。 辻:日本のコーヒー業界の中で影響を受けた人はいますか。 オ:やっぱり、京都の奥野修さん。六曜社の地下店のマスター。味の影響は受けなかったんだけど、一貫して奥野さんが言ってたのは「コーヒーはコーヒーだから、コーヒー以上の味なんかないんだよ」って。やりすぎると恥ずかしいみたいな。決してまずいコーヒーじゃなくて、彼のコーヒーは誠実な美味しいコーヒーだったんだけど、目一杯やった味はなんか恥ずかしくない?みたいな感じを持ってる人で、さすがミュージシャンで、だから今もミュージシャンをやる続けてる人なんですけど。要するに表面的なカッコ良さじゃなくてカッコいいってのがあるっていうのをずっと言ってくれた先輩で、カッコいい美味しいとダサい美味しいと2つあるって。カッコいい美味しいでいけるかどうか。美味しいけどダサい場合もあるし。 辻:じゃあ表参道でやってた大坊珈琲店の大坊さんは? オ:とても尊敬してるんですが、僕は実はあんまり影響を受けてないです。ただ、あのようにしたら、あのように評価されるんだな、みたいなものはとても見せてもらいました。で僕はやめとこうと思いました。彼は純粋にそれをやっただけな人なんですけど、誰もしゃべらないようにちょっと怖く怒るお店を若いのに作ろうとしてる人とか出てくるのを見て、やっぱり正解だと思いました。カッコいいからなんかストイックで、求道者みたいで、みんなカッコいいって素敵で、やっぱ美味しいよね、って言うんですけども、実はカッコよくも美味しくもなるのにわざと遠回りする方が、みんなが感動するっていう話じゃないですか。わざと遠回りして出来上がった物語、ストーリーっていうのは、ちょっといかさまなんですよね。大体は、うん。 辻:それって古道具の世界とちょっと似てるね。古道具坂田さんがいて、その後に出てきた人たちの感じが。 オ:僕の想像ではあるけど、坂田さんのメインはちゃんとしたものを売ってたんだと思うんですね。それがちゃんとしてないものからスタートする形で、今ものすごいなんかアーティスト系みたいな古道具屋さんがいっぱいいて、結構な値段をつけてて、それは面白い。けどもう古道具屋さんじゃなくて違う業種になってる。でも僕の世代からしたら、死んでも人が選んで提案したものなんて買わないと思う。自分で探したい、見つけたいと思うし。ZAKKA(東京)が素敵だって、そうやって提案していったと思うんですけど、あれは若かったから勉強の場になったんで、勉強のために古道具なんて買わないから。 辻:提案されたものが、みんな楽なんだろうね。 オ:だからZAKKAのようなZAKKAチルドレンの雑貨屋さん、大坊さんのような大坊チルドレンのコーヒー屋さん。要するに2番手って僕が呼ぶ人はよく似てる。何か形を変えて、物語だけを追いかける演劇的でパフォーマンス的な感じがあって。そのことをでも消費者もこれは工芸の消費者も近いと思うんですけど、それを素敵だ、美味しいって言ったりしてる。だからさっきの話につながりますけど、自分のコーヒーの立ち位置を上げたりとか、自分のキャリア、みんなから尊敬されることが、お金をもらう裏付けにしてきた身からすると、それじゃあ浅はかなものにすぐに戻っちゃうみたいな気がして。だからあまり成果は出なかった気がします。 そういう意味で売り上げは上がって食べられるようにはなったけれども、何か思ってたようにいいようになったわけではないなって。それは結構ネガティブじゃなく言いたい。 じゃあもう1丁やったろうかとも思うし、その場合は。逆にすぐそのレベルに戻るなら、まだ俺にやって欲しいって言ってくれる人がまた現れる可能性があるよね。
辻:それで最後の質問ね。去年「factory zoomer/life」という名前のお店を作ったんですけど、ライフって聞いた時に最初に思うことは何ですか。 オ:ライフは日々の生活じゃなくて、人生と根性とでも言いたい。僕はシャンソンがとても好きで若い時を過ごしたので、彼らは「ラヴィ」って言うんですね。「セコムサ」とか。「こんなもんだよ、人生は」みたいな。悲しいこともあって、楽しいこともあって、でも死んでしまうしね、みたいなね。とてもカッコいいことで、みんな人生って言えばいいと思いますねライフのことを。で、人生は素晴らしい。 辻: なんて素晴らしい答えでしょう。 オ:人生は素晴らしい。だって死んでしまったらおしまいだもん。人生に乾杯とか言ってみたいですよね。でもそろそろ言えるのかな。辻さんとはもう長い付き合いだし。最後に強調したいのは僕、本当に辻さんたちについていったんです。それは生活工芸のムーブメントじゃなくて、作家一人ひとりのデザインと向き合う力とか消費されないためのすごい努力とかについていったつもりです。僕のモデルは生活工芸で生き残ってる人たちです。 辻:生活工芸のメンバーは一応いろんなことを考えてまだ新しいことをやってるよね。みんな器を作ってるから、味を作ってる人と何か一緒にできたのは良かったと思うんです。一緒に盛り上がれたというか。 オ:また、おじいさんとおばあさんになったら、もう1発やりたいなと思います。
<略歴> オオヤミノル 1967年生まれ。京都出身。オーヤコーヒ焙煎所代表。20代から京都市内で喫茶店やバーを営む一方、京都・美山で独学でコーヒー焙煎を始め、ダークローストで人気を集める。現在はネルドリップ専門店の「FACTORY KAFE工船」(京都)、エスプレッソコーヒーの「Café gewa」(倉敷)を経営するほか、東京での出店を計画中。各地のイベントに参加し、美味しいコーヒーのための実践的なレクチャーも行っている。著書に「美味しいコーヒーって何だ?」(マガジンハウス)「珈琲の建設」「喫茶店のディスクール」(誠光社)など。
<編集後記> オオヤさんの言葉は時に難解で理屈っぽく聞こえますが、それも味という抽象的なものを正確に捉え、相手と分かり合いたいという熱意やコーヒーへの愛あればこそ。「アーティストのように作ってロックミュージシャンのように表現したい」。その信条通りの姿に見えます。(鈴木)
86th exhibition
tea or coffee?
2025.08.22 fri. — 10.19 sun. ●8/22(fri.) 23(sat.) オオヤコーヒ焙煎所・オオヤミノルさんによるコーヒーマスター ●9/12(fri.) 月乃音・渡邊乃月さんによるティー バー ー参加ー 有瀬龍介、安藤雅信、石原稔久、市川孝、井山三希子、岩田圭介、内田京子、内田鋼一、小慢、竹俣勇壱、月乃音、佃眞吾、中本純也、美人瑜、藤田真由美、三谷龍二、矢野義憲、山本亮平、羅翌慎、オオヤコーヒ、キム・ホノ、パク・ミギョン、ikken、LIGHT YEARS、factory zoomer(敬称略)
対談:lifeを探して⑪加倉井秀昭「ガラス界の名スタントマン」
2025.06.28
interview
対談「lifeを探して」の11回目の相手は、吹きガラスの作家の一方、高度な技術で制作を請け負う「ギャファー」としても活躍する長野県在住の加倉井秀昭さん。長年、factory zoomerの作品づくりを陰で支えるガラス界の名スタントマンに、辻和美がその醍醐味を聞きました。 (対談は2025年6月上旬、金沢市のfactory zoomer工房で行った。構成・鈴木弘、写真・鈴木静華、作品写真・加倉井秀昭) 辻:加倉井さんとは一緒に仕事をして20年以上たつけど、最初に会った時は30歳くらいだったかな? 加:そうですね。それぐらいの歳でした。 辻:あれは私が奈良の万葉ミュージアムの天井装飾という大きな仕事を引き受けて、自分以外の誰かに初めて制作を依頼した時でした。アメリカから2人の作家を呼んで、5、6人でチームをつくることになって、アシスタントに吹きガラスの上手な人を探していたら、ある人が加倉井さんを推薦してくれて。シアトル(アメリカ)のピルチャックグラススクールのサマースクールでは、ギャファーと呼ばれる人たちがアーティストと一緒に作品を作って大活躍してたから、その存在は知ってたんだけど、日本に帰ったらそういう人たちがいなくて、海外から呼ぶことになって。改めてなんですけど、加倉井さんにとってギャファーってどんな仕事ですか。 加:僕もあの時、手伝いに行って初めてギャファーっていう名前を聞いたんですよ。それまで学校とかエズラグラススタジオ(福井)とかで働いてて、コップを1日に何個作るという仕事をしてたんです。それがあの時は、大きなものを1日に3つか4つでしょ。実験から始めて、アーティストが気に入るまで、いろいろ試して、2週間ぐらいかけて仕上げていく。 辻:はい。そうでしたね。あんな仕事もう2度とないね。金沢の牧山ガラス工房とか、福井のエズラ工房とか大きな工房を借りながらのプロジェクトでしたね。 加:あれからですよ。この仕事は凄いな、おもしろいな、と思ったんですよ。あの時来たマイケル・シャイナーさん(ガラス作家、元名古屋芸大教授)は作り手としての引き出しが多くて、勉強になったな。多分日本ではあんまり使わないであろう技術も含めて全部いろんなものを出してきて、この人がいれば何でも作れるんだなと。時間をかけて1つのいいものを仕上げていくエネルギー、吹きガラスの技術としては最高峰なんだと。それで自分もこれを目指していけばこの先いろんなものが見えてくる、出来るようになる、進んでいけるんじゃないかなと思ったんです。 辻:えっ、あの時の仕事がギャファーを目指すきっかけになったの? 加:そうですね。あのアシスタントに入ったのがきっかけです。 辻:いやー、それはなんかちょっと嬉しいな。日本ではそういう仕事ってあんまり見ないじゃないですか。 聞かないし。だいたいみんな作家になりたいっていう人が多い。その中で加倉井さんは作家とギャファーの2つのわらじを履いて仕事をしてるわけだけど、そのことに関してはどう思ってるの?作家とギャファーの両立について。
加:基本的に自分の作品を作る時はどうしても技術志向で、ものを考えるので、あの手この手を使うんです。その、あの手この手失敗成功全部含めて、自分は一応目で見たものはなんとなく覚えてて、作ることができるみたいです。ギャファーの仕事の時は、アーティストに「こんなものできますか」って頼まれた時に、昔一度見たり試したりした技法や制作方法が、出てくるって言うとおかしいですけど、あれ使えるんじゃないか、これ使えるんじゃないかなっていうものが出てくることが多いです。 辻:やはりいろんな意味で引き出しが豊富よね。 加:さっき言ってたマイケルはその引き出しがすごく多かった。それは技術的なことだけじゃなくて、アイディア、「これこれ作ってよ」って言われたときに持ってくる内容がそうですね。そういう手の内がいっぱいあるっていうのは凄いなと思いましたね。 辻:その手数、引き出しはどうやって増やしてきたの? 加:吹きガラスに関してはそんなには新しいことはなくて、実は基本的なところに全部ガラスの動きって集約されてて。 まだ見てない動きだったとしても、例えばこの時だったらこいつならこんな動き方をするだろう、この温度だったらこれぐらいの動き方をするだろうっていう想像の中である程度煮詰めていくことができる。それを何回か繰り返していると、本当に動くんだとか、いややっぱり動かなかったんだっていう、そういううまくいった時とうまくいかなかった時のデータの集積ですかね。ガラスの素性なんてそんなに変わらないと思うんですよ。 そいつをどうやって誘導してやるかっていうのは、多分成功した数と失敗した数、失敗も含めてデータの数っていうのは消さないで。 この失敗の意味っていうのが絶対あるから。 だから結構その失敗してこれこんな動きしたとか、ここで失敗したっていうことの方が、後で血肉になるような気がします。
辻:制作頼まれて失敗した時は、一晩中なんで失敗したんだろうって考えるんですか? 加:いやいや、何を変えたかってことですよね。神様じゃないから失敗しないことはない。失敗して、何かを変えて試してみて、そのままスッといくと、ああこれだったかって分かる。その速さ、失敗した後の対処の仕方がギャファーには必要なんだろうなと思います。次の日も失敗してるとギャラもらえないじゃないですか。 辻:今、何人くらいのアーティストと一緒に仕事してるんですか。私を含めて。 加:だいたい安定して4人ぐらいですかね。 辻:他人の工房に行って、いきなり作るわけでしょ。自分が作りたいと思ってるものと全然違うものでも。どういうメンタリティーでいるのかな。中には作れないかもしれないものが、バーンとドローイングか何かで突然見せられるわけですよね。 加:作れないかもしれないっていう依頼はやっぱりあります。そういう時は、失敗した場合の話を最初にします。こうなるかもしれない、もしもの時にスペアはこれぐらい欲しいと。でも大体(スペアは)ないって言われるんです。まあこっちも依頼を受けた時点である程度これはできるだろう、 うまくいけばできるだろうなとは考えてるんですけどね。 辻:その今同時に制作を請け負っている4人のアーティストってみんな違うでしょ。ドローイングを見せてこういう感じでっていう人もいれば、私みたいにちゃちゃっとチョークで書いたりとか、現物持ってきてこんな感じでって言ったり。凄いね。どんなんでも対応できちゃうだよね。
加:向こうのスタイルはみんな違うんですけど、結局はギャファーの仕事の面白さって、下請けとはやっぱり違うので、寸法を書いてファックスで送ってきて、これ作ってくれって言われてできるのとは、またちょっと違うと思うんです。 辻:なるほど。 加:その面白さっていうのは、その人が何を作りたいのか、っていうところですよね。 作りたいラインとか、作りたい形とか。 単純にドローイングだけでは分からないところもあったりとか、手癖みたいなものがある。 僕のクライアントは大体皆さんガラス屋さんで、自分でも作ってる方がほとんどなので、その人の手癖とか、シャープなものが好きなのか、エッジが立ってるものが好きなのか、立ってないものが好きなのか、そういうものが分かった時が一番楽です。 逃げ道が無限に広がりますもん。 辻:面白いですね。なんか、こんな話今までしなかったね。 加:その人の好みが分かるまでにちょっと時間がかかりますよね。 初日では絶対無理なことなので、2回、3回と仕事をしていくうちに分かって、じゃあこれでいきましょうかっていう話になります。 辻:その人が一体どういうものが好きで、どういうところを狙ってるかっていう部分まで入り込まなきゃいけないってことですね。 加:そうじゃないと変な話、自分の好みが出ちゃったりするので。 辻:そうですよね。そこをどう使い分けてるのかなとずっと疑問に思ってたんだけど、その人の中、内側に入っていくんですね。 加:大事なのは完成した時にその人が喜ぶかどうかなんです。喜んでもらえたらそれが多分この仕事が一番面白い状況。 うまいとか下手とかって話ではなくて。そんなに安い値段ではないお金を払ってもらって作って、出来上がった時に「いいのできた」って言ってもらえると嬉しいですね。あとはそれが売れたって聞いた時も嬉しい。 辻:私は加倉井さんとは、一緒に作っているつもりでいます。辻が何を欲しがっているか、理解するにもそれなりの時間が必要だったと思う。今は、もう何も言わなくてもいいくらいに関係は育ってきたと思う。横でたまに、もっと「大きく」っていうくらいかな。(笑) 加:ギャファーは仕事として続かないと話にならなくて。1回、2回だったら、ただのいい思い出で終わってしまう。クライアントでたまに、何を言ってるのか分からない人とか、自分の形がない人がいて、そういう場合は難しいですよね。 作ったサンプルに「違う」だけ言う人も困ります。そういう人たちとは一緒に仕事はできないと思うから、お断りすることにしてます。 辻:これまでずっと聞いてきたんだけど、改めて加倉井さんにとってこのギャファーという仕事の魅力って何? 加:話が重なりますけどやっぱり、その人の作りたいものができる、っていうところが一番面白いかな。その人が「これいい」とか「これできたらカッコいいんじゃないか」と思うものを実際に形にしていくこと、一緒に現実化していく仕事ですよね。すごいデザインを持っていても技術がなくて形にできないのはすごくもったいない。本当の評価の段階まで辿り着いてない。そんな時に自分が蓄積した技術が役に立つのなら、こんな面白いことはないですね。 辻:加倉井さんは美大でも教えてるわけだけど、学校でガラスの仕事っていうとすぐ作家の方向に向かうでしょ。仕事としてのギャファーについて話すこともある? 加:多摩美で話したことがあります。高橋禎彦さん(富山ガラス工房館長、元多摩美大教授)に呼ばれて。自分の技術をクライアントが求めた場合、どうするんだとか、いろいろ聞かれました。僕が持ってる技術の中には自分で見つけた小さな技術も何個かあるんですけど、それは頼まれれば必要なものばっかりなんですよね。 で、それを使うんですけど、本当にもう自分が作りたいものがそのまま向こうが作りたいって言い出した時に、使わなきゃいけないってことは、たびたびある。やっと見つけたのになと思った時があります。 ズーマの仕事の時もありましたよ。 辻:え、本当ですか? 加:何個もあります。 辻:例えば? 加:例えば何なんだろう。 例えば高台の付き面がこうなってないやつとか。 辻:ああぁ。分かってないかもしれない。あまりにも自然にやってくれてて。私たちはそこまで技術的なことを追求してきてないから、加倉井さんが自然とやってしまったので、それがオリジナルの技法だって分かってないんだよね。 加:その技術を使ったらできるし、使わなくてもできる。その使い分けができるってことが重要だと思います。みんな作る工程で当たり前になってる現状を疑わないでしょ。そこもうちょっとこうできるんじゃない、ってなった時のその先に続く膨大な時間と失敗の連続を想像して、なかなかそこにいけないと思うんだけど、そういうところを持ってると(作り手として)強いんだろうなという気はしますね。あと人のデザインを見てると、その人の好みとか癖とかがあってすごく楽しい。自分のデザインじゃないから余計ニュートラルに見れるんですよ。 辻:単純に技術の継承とかいう問題じゃないんだね。 加:そうね。純粋な技術でいければ、まだ人に伝えることもできるんだけど。結局、最後は人間同士の話になってくるから。どこまで相手の懐に入れるか。そこは教えようがない。 ギャファーっていう看板がどうしても表に出てこないのは、作家である自分が作ってるっていう立ち位置を崩してないんだろうなと思う。 そこだけで自分のプライドの持っていきようが変わってくるから。ギャファーに関しては、この人(クライアント)が喜ぶところにたどり着かないとダメってなると、自分の得意なものとかは別に必要ないんですよ。 自分のプライドはこの人に合わせることが今のプライドで、いいものを作るっていうプライドとは全く別のものなんです。 辻:めっちゃ深っ! 思ってたのと全然違ってた。クライアントが喜ばないと、終われないんですね。自分の気持ちは一旦横に置いておけるって凄いよ。 加:分かりやすく言うとOS(パソコンを動かす基本ソフト)なんですよ、そのクライアントが。僕がその中に入れればちゃんと形になっていくんです。
辻:それでズーマは去年「life」という名前の新しいお店を作ったんですけど、加倉井さんはライフと聞いて何を思い浮かべますか。 加:純粋に言葉自体からポッと出てくる心象風景は昔の晴れた河原の辺りの自由な暮らし、楽しかった頃の生活。もしもライフっていう名前のアルバムを出したとしたら、多分レコードのジャケットはそんな感じ。河原でビールでも飲んでるかもしれない。 辻:そうか、そうか。じゃあ、ギャファーとしての今後の抱負とか目標は。 加:やっぱり集中力だね。集中力が大事。集中力を絶やさないこと。 ギャファーは、ほぼほぼアスリートなんで、ずっと最初から最後まで集中してるはずなんだけど、必ずテンションの高い時と低い時があって、そのちょっとした隙をついてくるんですよ、ガラスってのは。だからちょっとなんか1つ抜けたとか、完全なリズムから少しずれたとか、その時を狙ってパシンと割れてくる。あれ、今まで割れてなかったのにっていうものが生まれて、よく考えてみると、手前で1回フラッシュ(焼き直し)してないとか、向こうが来るのが遅れてちょっと待ちすぎたなとか、そのほんのちょっとを狙ってくるので。 そこを気づけないのは多分集中力だから。 辻:ああ、なるほどね。いや、身に染みますね。ギャファーさんにお願いするのは特別なもので、サイズが大きかったり、形が難しかったり、ちょっと変なものだったり。それを作る時の集中力は、半端じゃないよね。失敗できないんだから。その集中力の途切れとか、アスリートっていうのはぴったりの言葉ですね。 加:だからね、どっかで向き合わないといけないところもあると思います。 集中力が切れた時の逃げ方というか、収め方というか。失敗した時、 ただ同じことをしてたら絶対また割れるので手を変える、もしくは自分の体調に合わせて手を変える。 自分が集中力がないなら、他の人(アシスタント)にちょっと焼いてきてもらったりとか、そういうのを(失敗する)手前でやらないと。 辻:私は日本では加倉井さんしか知らないんだけど、これから職業としてのギャファーを目指す若者は出てきますかね。
加:出てきてほしいですね。出てほしい。じゃないと俺いくつになってもこれやるのかってことになる(笑)。多分、みんなうまくなりたいっていう気持ちはあると思うんですよ。 ガラスを習い始めた時みたいな。その技術への渇望をどこかで失わないというか、妥協しないというか。それで自分の作品を作りたいっていうのが作家であるのであれば、ギャファーっていうのはそれ以上だと思うんですよ。自分の作品では使わない技術も手元に置いておかなきゃいけないわけだから。 辻:私もそう思った。 作家なんてシンプルなもんですよ。ギャファーに比べれば。 加:人ができないものを自分ができるのであれば、その技術が人のためになるのであればっていうところを純粋にいつまでも追い続ける。それを肯定してもらえる職業がギャファーなんだと思いますね。 辻:なるほどね。 加:人のもの作ってる時って正直、楽しいんですよ。自分の作品作ってる時より楽しいかもしれない。 その人たちと何かを共有できるので。 当然だけどギャファーは1人じゃ成立しないでしょ。考える人がいて、手伝う人がいて、1つのチームになって、「いいのできたね」っていうところの達成感は、他にはなかなかないですね。 辻:ズーマは1999年にできて、これで26年になるんだけど、加倉井さん抜きではここまで続けてこれなかった。 本当にそう思う。これからもちゃんとしたもの食べて体だけは気をつけて。まだまだ一緒に作りたいものがあります。 加:はい、ありがとうございます。頑張ります
<略歴> 加倉井秀昭(かくらい・ひであき)1970年、東京生まれ。1998年、東京ガラス工芸研究所卒業。金津創作の森エズラグラススタジオ勤務の後、ギャファーとしてfactory zoomer、スタジオリライトなど国内外のガラス工房で活動。現在は木越あい、元木庸子、渡辺ゆう子、辻和美の専属ギャファーを務める。教育関連では倉敷芸術科学大学、日本装飾美術学校を経て、女子美術大学非常勤講師。2012年、長野県富士見町に工房「Scratch&Noise」設立。作家としては、カラフルなレース模様のゴブレットや、細かい格子の中に気泡を閉じ込めたボウルなど、ベネチアングラスの技法を駆使した繊細な作品のほか、動物の精緻なオブジェ、照明器具なども手掛ける。
<編集後記> ズーマの透明な大型ピッチャーも胴がくびれたペットボトル形の瓶もギャファー加倉井の確かな腕前があってこそ。愛用の道具と共にオープンカーやバイクでやって来て、数日間で仕上げては帰っていく。現代の渡世人のようなスーパー助っ人の仕事はいつも鮮やかです。(鈴木)
85th exhibition
standard
2025.07.04 fri. — 08.17 sun. ●8/02(sat.) 3(sun.) 辻和美「わたしの中国茶」出版記念喫茶(御菓子丸+factory zoomer)※予約制
photo by suzuki shizuka
対談:lifeを探して⑩中本純也「妄想から生まれる健やかな器」
2025.05.19
interview
対談「lifeを探して」の10回目の相手は、自らの焼き物を「雑器」と呼び、日々の器を作り続ける陶芸家の中本純也さん。ぽてっとして温かみのある灰白色の磁器はどんなふうに生まれたのか。辻和美が和歌山・龍神村の山中にある工房を訪ね、制作に込めた想いを聞きました。 (対談は2025年4月中旬、和歌山県田辺市龍神村の中本さんの自宅・工房で行った。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)
辻:ズーマでの個展は前回が2022年だったから3年ぶり、これで3回目です。いきなり聞いちゃいますけど、どんな感じになりそうですか。もう気になって仕方なくて。 中:うーん、大きな変化はないかもしれないです。新しいものもあんまりないかも。でも金沢って昔から京都とはちょっと違った魅力があると思ってて、そういう所で自分の器を見てもらえるのはすごく嬉しいです。 辻:私はガラス作品の制作の他に、ギャラリーオーナーもやってるわけですが、作家選びは自分と「似た言葉」を持つ作家さんにお願いしてるんですよ。その言葉に共感してもらえるお客さんに集まってもらえたらいいなと思っています。金沢では、そんなに同じ言語の人は多くないのですが、ぜひ見てほしいと思っています。 中:そうですねぇ。古九谷とか金彩とか、雅な感じがします。でも古九谷の妖しさ、闇というか、あれは究極の美ですよね。京都と違った濃さがある。日本の花鳥風月の美意識にピタッとはまってる。これは僕の勝手なイメージかもしれないけど。 辻:絵付けもお皿一面ですものね。中本さんの世界観とは真逆ですよね。 中:でも好きなんですよ。すごい魅力的。あれは「ハレ」の器で、僕の作ってる雑器は「ケ」。世間一般で言う王道には参加できないから、自分の道を探さなきゃいけないんです。
辻:出身は大阪でしたっけ。どんな子ども時代でした? どうやって焼き物の世界にたどり着いたんですか? 中:河内長野の生まれです。大阪でも南の山の方。一言で言うと落ちこぼれでした。勉強はできないし、言われたこともできない。小中の頃は誰からも相手にされなかった。 辻:なんか私たちの時代って、できないことに対して厳しかったですよね。 中:太い大きな流れには入れなかった。でも高校の時にこれなら自分も行けるかもっていう道があったんです。私立の高校で、勉強はほとんどなくて、一日じゅう絵が描ける。そこを出た後は、印刷屋さんか看板屋さんに行けるっていう。授業はポスターカラーで平面の配色とか、レタリングとか。 印刷は写真製版が主流だったから写真の授業もありました。 辻:どこですか? 中:初芝高校。元の商業高校。僕はデザイン科だったけど、今はもうなくなったんですよ。そこでやっと自分も毎日学校に行って張りのある生活ができるようになったかな。 辻:そこから美大を目指したんですか? 中: 卒業の年になると、いろんな専門学校とか大学の説明会があって、コンピューターグラフィックの専門学校が楽しそうだったけど、結構親に負担かけてたから無理かもしれないなあって思ってた。そんな時、学校の図書館でなぜか分からないけど焼き物の本を見つけて、「あ、こういう世界もあるのか」って。何年か前の先輩が大阪芸大で陶芸やってるって聞いて、まあ受験ぐらいはいいかなと思って受けたら通っちゃった。 辻:土は初めての素材でしょ。 中:そうですね。平面から立体だし、とにかくその素材をマスターしないといけなかった。その大学の図書館も充実してて、古い映画まで見れるから、とんでもない遊び場というか。確かにね、大学は面白い授業もいっぱいあったし、4年間充実してましたね。
辻:大学では どんな作品を制作していましたか? 中: 器だけじゃなくて、表現っていうか。2回生からは部屋をもらえるんで、しょっちゅう行って、なんかいろいろ作ってましたね。 ろくろもできるし。 粘土っていう素材で自分が履いてた靴をデッサンしたり。 辻:当時の陶芸は、土の可塑性とか、素材の可能性とかいって、どこまでアートに近づけるか追求してた時代ではありませんか? 中本さんはいつからそうじゃない方に向かうわけですか? 中:そうですね。活発にやってましたね。みんな。卒業した人たちが美術館に搬入に行く時は手伝いに行って、どんな仕組みになってるのか見てました。自分も公募展にぼちぼち出したりして。でもこれで行けるという手応えはなかなか掴めなかった。憧れたものの、あっち齧りこっち齧りの寄せ集めで。それで卒業間際の3月になって学生課に駆け込んで就職先を紹介してもらって、洗剤会社に1年半お世話になりました。 辻:いったん陶芸やめたんだ。 中:離れたんですよ、1回。その会社では洗剤のプラスチックボトルを作る部署があって、図面を書くことからです。また違う勉強が始まった感じでしたね。ドラフターもCADも一から上司に教えてもらいました。
辻:そして、その会社を辞めてから、誰かに弟子入りしたんですか? 中:いや、それが、南米に旅行に行っちゃった。大学の同級生だった理詠ちゃん(妻、陶芸家)を訪ねてコロンビアへ。そこは生活は近代的なんだけど、食器は土器なんです。こんなすごい国があったんだ、素晴らしいと思いました。これこそ自分が生きてく場所じゃないかって。こういう美しい生活って、学生時代に古九谷を見た時と同じ、「ウワー」って感じがしました。田舎に行くと水道も電気もガスもない中で、大きな瓶にトウモロコシを砕いたのを発酵させて、それを食べて生きてる。おばちゃんが土器を作って、市場で売って暮らしてる。生産と暮らしのつながりは日本の信楽を思い出しました。コロンビアには半年ほどいて、その後、メキシコ、グアテマラ、ブラジルとか回って展覧会を見たりしました。 辻:それで帰国してから窯を作った? 中:25歳ぐらいで日本に戻って、大阪で理詠ちゃんと住み出して電気窯を買ったんです。本当にこれで食べていくのか、何を売りにするのか、真剣に考えました。結局、生活と器作りを一致させる、この暮らしを追求するしかないと。日々作ることが自分の足元をつくっていく、これから先の時間をつくっていく。それが今の雑器なんです。 辻:龍神村との出会いは。 中:とりあえず関西のいくつかの村の村長さんに手紙を書いてみたんですよ。ぐるぐる探して回る前に。役場の担当者がたまたまこの近くの人で、土地を紹介してもらって。林業をやってる大家さんは、僕と同じ年頃の息子さんがいて、話を分かってくれて。それでここに決めました。 それと理詠ちゃんの幼馴染が大工さんで、最低限必要なものを書いた間取り図を持って相談に行ったら、基礎の作り方から、生コンを流すコツから、土壁のアイデアとかいろんなことを1日で教えてくれて。持ってった紙にいっぱい書き込んで、それがこの家を作る時の教科書、設計図になりました。
辻:一番最初にしたのは。 中:敷地にいっぱい立ってた木を切ってもらって、その木を整理してたら犬の散歩で通りがかったおっちゃんと知り合って。その人がまた大阪から移住してきた大工さんで、手伝ってくれることになったんです。 辻:すごい偶然ですね。 中:一緒に製材所に行って、どんな木を選んだらいいかコーディネートしてもらって。それで掘っ立て小屋で製材所から来た木を刻んでくれたんですよ。 予算がないのに「いいよ」って。その間に僕は地面を掘って基礎を作って、基礎ができたらこれで建つわっていう感じ。 4月に引っ越してきて、8月に棟上げ。とんとん拍子です。そこから土壁の下地を編むのに2カ月ぐらい。で11月、やっと土を塗ったかな。年明けに鉄骨を組んで1月から窯を作り出したんですけど、窯は最初から薪窯と決めてました。 辻:どうして薪じゃないとダメなの。 中:第一希望、薪。第二希望、なし。できなければ諦めて就職するつもりでした。そこに妥協はなかった。学生時代から結構、陶芸の産地とか作家さんの工房とか見てきたんですけど、薪窯は生活と一体なんです。ガスとか電気だと切り替えてる感じがする。自宅と会社みたいな。 辻:仕事と生活を一致させたかったんですね。 中: うん、目指してるのはそっちだったので。雑器を作るのと庭で野菜を作るのも同じ。それしかできない。それがガッチリ重なるのがいいなと思った。陶芸をやりたいというより生き方の中の選択が粘土だった。他の選択肢はないんですよ。
辻:初めの頃は磁器じゃなくて陶器を作っていましたよね。 中:茶色い焼き締めね。あれは「炻器(せっき)」。焼き上がった時が完成じゃなくて、その先がまたあるというのは予想してなかった。使えば一皮剥けるんです。それが美しい。 辻:なんでやめちゃったんですか。 中:焼き締めでは自分が目指す雑器が実現できなかったんですよ。なんか焼き締めは敷居が高いように扱われて、今みたいに見てもらえる場というか受け皿がなかった。焼く技術もすごく大変で作るのに時間がかかりすぎることもあって、これ以上続けるのは無理ってなった。 辻:どうやって切り替えていきましたか。 中:ここに来たのは31歳なんですけど、もともと30歳までにやりたい環境が整わなかったらすっぱり焼き物はやめようと思ってたんです。無理しすぎて体を壊したこともあったし。でも明日からやめるとして最後にやりたいことは何かって考えたら、朝鮮・李朝の白磁でした。売れるかどうかは別にして、とにかくやろうと。それで窯を作り直したんです。
辻:窯は焼き締めの時と白磁を焼く時では違うんですね。知らなかったです。 中:そのままでは使えないんですよ。たとえ使えても自分の思い描いた雑器とは違ってくる。薪窯は自分で規制しないと上品というか位が高くなっちゃう。雑器にならない。観賞用になっちゃうんです。 辻:薪窯だと付加価値が付いちゃうんですかね。 中:薪の力は凄いですよ。引き出しをうまく使い分けて調合しないとできない。油断してたら凄いところにいっちゃう。だから自分の着地点をしっかり知ってないといけない。 辻:李朝白磁も、もともとは雑器じゃないですか。今は美術工芸品として美術館に陳列されるようになっていますが。 中:貫禄ありますよね。雑器じゃないですよ。まあ安宅コレクション(大阪市立東洋陶磁美術館の中核)が特殊なんですけど。あれは普通の暮らしの中では見れない。でも李朝を作りたいんじゃなくて、健やかな、ややこしくない、華美じゃない、自然と溶け込むようなもの。韓国の焼き物とかアフリカの彫刻とか、どこか人工的じゃないもの。そういうのは日本や中国の焼き物にはない感じがする。土器に近いかもしれない。 辻:李朝時代のモノは、いわゆる作家が作ってるわけじゃないですものね。 中:名工はいたと思うんですよ。工房があって。王朝の窯もあったし。でも自由さというか、自然というか、人間だけ独立してあるんじゃなくて、何かと一緒になってるのってやっぱり最高に素敵というか。目指すのはああいう大きなものがいい。 辻:民族性もありますよね。韓国は大らかだし明るい。 中:物によっては螺鈿とか緻密なのもあるけど仕上がりはやっぱり大らか。中国みたいに人間離れしてないですよね。
辻:それにしても中本さんの切り替えはドラマチックですよね。白か黒か、0か100かはっきりしてる。 中:自分の時間は限られてるじゃないですか。目的地がなければ何もできないでしょ。今は焼き締めの時に実現できなかったことをちょっとずつ攻めてる感じ。やりたいことの視野が広がったような感じがします。 辻:まだまだ、白磁でやりたいことがあるのは素晴らしいです。 中:自分に飽きて辞めてく作家って多いんですよ。これからって時に何も作れなくなって。そういうの見てると切ない。 辻:モチベーションはどうやって保ってるの? 中:素敵だなと思ったものに自分がどうやって辿り着けるか。その道具が焼き物。とにかく自分だったらどうするかなと考えることの繰り返し。例えばファッション雑誌を見たら、安藤忠雄のコンクリート打ちっ放しの家が出てくるでしょ。そうしたら、そこでどんな人がどんな服を着て、どんな物を食べてるのか、その時どんな器を使ってるのか、妄想するんです。 辻:そういう想像、妄想が制作に繋がってくるんですね。 中:それが形になってくるんです。宿題ばっかり残ってます。 辻:でもたくさん作るけど、自分の作品に厳しいですよね。なかなかOKを出さない。 中:自分は才能ないし、センスないし、バランス感覚も悪いんです。完成度を上げるにはたくさん作った中から選ぶしかないんです。その方法しかない。妄想と選択です。ただそれだけ。
辻:金沢のお店には「ライフ」って名前を付けたんですが、ライフで思い浮かべることは何かある? 中:それが、高校の時の最後の作品が「ライフ」というタイトルでした。「キャラクター」を題材に何かのシンボル、メッセージを運ぶものを描くという課題で。テレビ番組を見ていて閃いたんですけどね。絶滅危惧種のキャラクターが学校の教室に生徒として座って人間との共存を学習してる絵を描いたんです。最初は「未来への学習」って名付けたんですけど、先生のアドバイスで変えました。 辻:それは何を言いたかったの。共存の大切さとか? 中:浅はかですよ。先生に呆れられるような。でも自分の気持ちだったかもしれない。キャラクターの中の1人が自分だったもしれないし。 中:あとライフと言えば、僕にとってはほとんど李朝の昔の生活かもしれない。どれだけ自然をどう取り込むか。人間だけじゃなくて、そういうものを取り入れた社会をどうつくっていくか。そうすればどんな家に住むべきか、どういう生活をするべきか、将来の形ができてくるかもしれないですね。そういう想像力って大事じゃないかな。 辻:最後に改めて金沢ではどんな作品が見られますか。 中:今時点で僕が思う、その生きる方向のちょっとは何か、新しい形ができてるかもしれないですね。まあ前回と比べて上手くなってるとか下手になってるかとか、そういうことは考えない方がいいかもしれない。 辻:作品が届くのを楽しみに待ってます。
<略歴> 中本純也(なかもと・じゅんや)1967年、大阪府河内長野市生まれ。大阪芸大工芸学科で陶芸を専攻。南米や欧州の焼き物作りに触れた後、大阪から和歌山に移住し、1999年から龍神村の自宅・工房で暮らし周りの器を中心に制作。 <旅のメモ> 金沢から龍神村まで片道450キロの道のりは、休憩を含めて7時間半のロングドライブ。昼は岸和田SAのストライク軒で和歌山中華そば。夜は中本家で豚のココナツミルク煮、庭で採れたカラフルな野菜のサラダなど理詠さんの手料理を中本さんの器でご馳走に。日本3美人の湯という龍神温泉に泊まり、翌日は京都に寄って李青、KAFE工船、ARTS&SCIENCE、Kit、まるき製パン所をハシゴしてから帰沢。 <編集後記> 一般的な磁器のイメージとは逆方向の、あの大らかで肉厚な器たちはどこから来たのか。木立に囲まれた半ばセルフビルドの家と野菜やハーブが育つ庭を見て合点がいきました。中本さんの焼き物は美しい暮らしの実践なのだと。「現代の民藝」。そんな言葉が浮かびました。(鈴木)
84th exhibition
nakamoto junya
2025.05.30 fri. — 06.29 sun. ●5/30(fri.) 31(sat.) 青山 APOCのパンケーキを中本さんの器で(詳細はこちら→● )
photo by suzuki shizuka
対談:lifeを探して⑨SANKAKU「沖縄発、元気が出る服」
2025.04.11
interview
対談「lifeを探して」の9回目は、インド綿を中心に涼しくて着やすい、そして何より着ていて楽しい服で人気のSANKAKU。4月からの展覧会を前に、沖縄で暮らす女性3人組に会うため、辻和美が南の島へ飛びました。 (ミカ=山城美佳、ロミ=新垣裕美、サン=大城さゆり、対談は2025年3月中旬、沖縄市にあるミカさんの自宅アトリエで行った。構成・写真 鈴木弘)
辻:こんにちは〜。ひさしぶりです。元気にしてた? ついに沖縄に来ちゃったよ。今日はいろいろ根掘り葉掘り聞いちゃうね。まずはSANKAKUの始まりから教えてください。どんな出会いがあって、どうして洋服を作ることになったんですか。名前の由来はどこから? ロミ:最初は私が暇で時間を持て余してて、ミカちゃんとほぼ毎日のように会ってた時期があったんだよね。週に6日ぐらい会って遊んでた。 ミカ:そう、鎌倉と逗子にあるchahat(チャハット)さんが、布展を沖縄で開催していて、そこに行ってそれぞれ好きな布を買って自分の服を縫うところからだよね。 辻:3人で行ったの。 ミカ:別々に。 ロミ:買うのは別々だけど最初はミカちゃんと一緒に服作りをしてた。 ミカ:ちょうど子どもが生まれて授乳の時期だったけど着る服が意外となくて。じゃあ自分で作ろうと思って。たっぷりした服なら(赤ちゃんを)がばっと中に入れちゃって授乳できて、ケープもいらないし。 辻:服って作ろうと思って作れるものなの? ミカ:うちは母がもともと洋裁をしてたから身近に見てた。中3ぐらいからかな、教えてもらいながら服を作ってたの。 ミカ:実はその頃、親に内緒でガレージに家財道具を運んでフリーマーケットをしてた。あまりに暇だったし、お小遣いも欲しかったから。それがある時バレて、売るものがなくなった時、ちょうど内地の学校に行ってた(姉の)サンちゃんが帰ってきて、一緒に変な帽子を作って売ったりしてたの。 辻:何歳ごろの話? ミカ:中3か高1か。 辻:わーませてる。 サン:私が20歳ぐらいだった。
辻:ロミちゃんはどんな感じで? ロミ:私も体が大きいから自分の丈に合う服がなかなかなくて、自分サイズの服をよく作ってた。20代の頃から。うちも祖母が洋裁の先生で、母も洋裁学校に行ってて、子供の頃は服を作ってもらってた。そんなこともあって自分でも作ろうかなと。結婚で沖縄に来ることになって、ミカちゃんと出会って、サンちゃんも一緒に作ることになって、自分たちで着るものを縫うようになったよね。 ミカ:「あ、それいいねー」「どうやって作ったの」なんて言いながら作ってるうち、欲しいっていう人が出てきて、roguii(ロギ、自宅・カフェ)で並べてみようかって。 辻:カフェに並べたんだ。私も前に展覧会させてもらったわ。懐かしーい。そん時は、何点ぐらい出したの? ロミ:最初は20点ぐらいだったかな。 辻:結構作ったね、んで、サンちゃんはすぐ縫えたの? サン:私は洋裁の専門学校のパターン科に行ってて、1ミリでもズレたらダメみたいな世界で厳しく教えられたから、服作りって大変だなって思ってた。卒業した後は縫ってなかったんだけど、2人が自由に縫ってるのを見てなんか楽しそうだなーって。
ロミ:最初、サンちゃんが言ってる意味が分からなかったもん。 サン:2人みたいなほうが楽しく作れて、自分の体に合わせて作れるんだって発見した。学校ではもっとカチっとしたものを作ってたし、課題が多くて毎日忙しかったからなんか嫌だなって思ってたけど、そうじゃないところから入ったら意外と楽しいんだなーって。 辻:サンちゃんは、ガチなやつだったんだね。でも2人のその「楽しさ」が買う人に伝わってくる気がする。それで20着はすぐ売れちゃったの? ミカ:そう、売れた。売れた中の1着をロミちゃんのお友達が着てるのを見たfog(フォグ、東京)さんが「うちでやってみない?」って声を掛けてくれたんですよ。それまでSANKAKUっていう名前もなかった。何か恐れ多いと思ってちょっと迷ってたんだけど、1年後にまた「やらない?」って言ってくれて、じゃあやろうかと。 ロミ:作った服を着てfogさんに行くと「買いたい」って言ってくれて、本当に買ってくれたりして。「うちでやってよ」って、2年ぐらい会うたびに言ってくれて。最初は冗談だと思ってたんだけど、だんだん本当にやってもいいのかもと思うようになって、それで2人に声を掛けたんだよね。 ミカ:40代でのデビューだよね。名前は最初、大きい3人だから「ジャンボ」がいいんじゃないかとか。挨拶みたいな名前で「こんにちは」の意味だし。 ロミ:ジャンボは絶対やだった。 ミカ:SANKAKUって思いついたのは多分、旅行中。3人でやるし3つの辺だし、あーいいじゃんって。 辻:表記のイメージは最初からアルファベット? それともカタカナ?} ミカ:三角定規を思い浮かべたから、ひらがなとかカタカタとか考えなくて、ビジュアルから入った。それでアルファベットの大文字がスッキリするねって。 辻:最初の展覧会はどうだった? ミカ:無名だったからインスタを始めて案内したら初日に人が並んでて驚いた。誰も来ないかもと思ってたのに20人ぐらいいて何でこんなに?って思った。 辻:それが何年ぐらいでした? ミカ:2016年。春だった。 辻:何点ぐらい出したの。 ミカ:100点ぐらいかな。最初は少なかった。結構スカスカだった。 辻:作り方で特徴的なのは、3人がそれぞれ作るのが面白い。 ミカ:みんな自由。 ロミ:全てひらめき。デザイナーがいるわけじゃないし。 サン:「作ってみた」って感じ。
辻:何枚か作ったら集まるの? ミカ:最初はミシンを並べて3人で作ってたんだけど、おしゃべりばっかりになって全然進まないの。効率が悪いから別々にやることになった。 ロミ:展覧会が決まってからは特に作らなきゃいけないから。別々に集中して作るようになったね。 ミカ:持ってきた時に「いいね」とか「また違うの作ろう」とか言い合って。 辻:3人が持ち寄った時に「これはダメ」とか「違うんじゃない」っていうのはないの? 3人:ない、ない、ない。 ミカ:自分は着なくても、誰かが着たら素敵って思うことがある。すごい似合う人が着たら急にキラキラして見えることがよくある。。 サン:自分が作ったものじゃない方がよく見えたりね。 辻:じゃあブランドの定義は。3人の誰かが作ったらそれはSANKAKUってこと?。 ミカ:あんまり固いことは言わない。 ロミ:布は一緒に見に行って買ったりするよね。 サン:買った布を途中で入れ替えたり。 ミカ:10メートルの生地なら3~4着作れるんだけど、自分が地味なの作ってたら明るいのが羨ましくなったりするから。
辻:生地はどこで手に入れるの。 ロミ:大体chahatさん。東京に行った時に生地屋さんを見たり、ネットで買ったりもするけど。まず3メートルぐらい買って試して、気に入ったら追加で買うかな。 辻:今回の金沢の展覧会が決まって一番最初にやったのは何。 ミカ:新作を作ると言っても、その時にすぐ欲しい布が手に入るわけじゃないから、基本的にはあるもの、手持ちの布から作るの。 辻:絵描きが手元に絵の具のチューブを持ってるみたいなものね。 ミカ:飽きて使いたくないなと思ってた布でも別の新しい布と組み合わせると良かったりするし。 ロミ:「金沢で5月」だから何にしようかなって考えて。私は思い付いたものから作っていく。 ミカ:前回、金沢ではパンツがよく売れたから、パンツを多めに作ろうとか。それならブラウスも欲しいよねって。 辻:それぞれが作ってからどこかで擦り合わせしていくわけ? ミカ:どういうの多めに縫ってるかとかね。2人がこんなのなら自分はこうしようとか。 辻:へー、面白い。阿吽の呼吸って感じだね。グループで作るときって枚数を割り当てないと出来上がってこないんじゃないの? ミカ:ノルマになると急にやる気がなくなるの。 ロミ:生地見て、「これパンツにいいな」とか決めることもあるし。 ミカ:やりたくてやってたことが、やらなくてはいけないことになったら嫌になりそうだから。 サン:厳しい関係じゃないのが、SANKAKUのいいところかもね。 ミカ:すごく目の粗いザルというか。 辻:その自由で、いい意味での緩さがあることがお客さんに伝わるんだと思う。 ロミ:お互いに信頼感があるから。誰かが何かの役割を果たしている、そのバランスがいいんだと思う。
辻:じゃあ作る時に大切にしているのは何。 ミカ:見に来てくれた人や買ってくれた人が「嬉しくなる」のがいい。着てて、後で「あ、ここ、こんなことしてある」とか「ポケットが違う」とか見つけたりして楽しめる。それを気に入ってくれたら嬉しい。 ロミ:やっぱり着ていて楽しそうなもの、ハッピーになるものがいいかな。着やすさも大事だし。 サン:2人と同じ(笑)。来る人もそういう感じで買ってくれてると思う。最初、ポケットは1つだった。右だけとか、左だけとか。 ミカ:技術的に難しかったからね。2年目にポケットが両方にあるのを見て、お客さんが「あ、2つあるー」って驚いてた。そういう反応があるからまたこういうの作りたいって思う。 ロミ:お客さんに成長させてもらってます。 辻:作って納品で終わりじゃなくて、そういうお客さんと話す時間も大事? ミカ:年に1回でも2回でも、そういう時間があると違う。普段、自宅でミシンやってる時って孤独じゃないですか。どういう人が着るのか分からないまま作るより、やっぱりお客さんの顔が見えた方がいい。 ロミ:お客さんが着てる姿って見てみたい。 サン:着る人が着ると、急に服が都会的に見えたりね。 ミカ:売れ残ったものもちょっと手を加えたり加えなかったりして、ずっと出し続けて、似合う人に巡り合って旅立っていくとすごく嬉しい。 辻:展覧会の後に何か付け加えるのも面白いやり方だなあ。 ミカ:人が着てるのを見て「ここはこうした方がいいな」とか思ったりして。帰ってきてからまた直したり。フリルを付けたら可愛かったり。 辻:自分で作った服の直しは自分でするの? 他の2人が触ってもいいの? ロミ:「やっとくね」って言って付けることもある。 ミカ:誰かがやってくれるとむしろありがたい。 辻:その3人の呼吸が凄いよね。普通、自分の作品は触られたくないんじゃない? デザインが変わるわけだし。 ロミ:誰かが手を入れると何かミラクルが起きるんじゃないかって思う。だから全面的にお願いしたい。
辻:うちは基本的に器のギャラリーだけど、SANKAKUさんの服を楽しみにしている人が多いんですよ。 ミカ:金沢は沖縄より暑いかも。 辻:湿気が多いから。だからすぐ乾く服は夏の金沢に欠かせないんです。 辻:それで新しいお店は「ライフ」って名付けたんだけど、ライフという言葉から思い浮かべることは何かある? ロミ:日常。日常にSANKAKUがあってよかったなーって。SANKAKU and life. 名前聞いた時、すごい素敵だなーって思った。 辻:30代で作る店じゃないし、直球のネーミングがいいかなと。4月6日にオープンしたからちょうど1年になる。 ミカ:SANKAKUは1周年企画だ。 辻:いっそ「1周年記念」って銘打ってやる? ロミ:うん、めでたい。 サン:なんかユーモアにできる力はいいね。笑えたら大変なことも何とか乗り越えられる。真面目になったら自分も疲れちゃう。 ミカ:泣くことは簡単だけど、面白いことも中にはあるから、そっちを見た方がいいし、泣いたって何も出来ないし。 辻:なんかジーンとくる。 ロミ:ライフ=修業。人生ユーモアが大事なので、それを笑いに変えて生きてる。感情の揺れとか、さまざまな出来事とかあるけど、SANKAKUが救ってくれたところがある。バランスよく働いている。 辻:自分たちの手で作れる範囲で作ってるからいいのかも。服作りって人気が出るとどんどんデザイナーの手から離れていくでしょ。 ミカ:前に工場で作る話があったけど、うちのお客さんはそれ欲しいかな? ロミ:魅力がなくなっちゃうよね。生地合わせの楽しみも無くなるし。 サン:自由で伸び伸びしたところが薄まっちゃいそう。 ミカ:採算を考えると同じものを何枚も作ることになるし。そうなるとやりたいことじゃなくなるから、やらないでおこうと決めた。
辻:じゃあ最後の質問。今回は金沢でどんなものを見せてくれるんでしょうか。 ミカ:金沢って都会でキレイでしょ、品があるっていうか。そんな街に似合う感じにしたい。(笑) ロミ:ユーモアと品のバランスかな。 ミカ:一枚生地とパッチワークと作ってるけど、そんなに奇抜じゃないもの。日除けになるし、クーラーの部屋でもいいかなーって。あとパッチワークのバッグも作ってる。 ロミ:ワンピースのほかサロペット、アシンメトリーな羽織もあるよ。 辻:(ハンガーにある服を見て)あ、ウシがいる。 サン:前の展覧会の時「ウシ」「ウシ」って言われたから。 辻:あ、すごい。トラもいる。 ミカ:ウシの次、今度はトラがくるかな?
<略歴> SANKAKU 山城美佳(1975年、沖縄市生まれ)、新垣裕美(1973年、東京都生まれ)、大城さゆり(1970年、沖縄市生まれ)の3人による洋服制作ユニット。2016年から活動。インド綿を中心に「涼しく着やすく楽しい服」を制作し、地元沖縄をはじめ、東京、台湾、金沢などで展覧会を開催。さまざまな色や柄の生地を組み合わせたカラフルな服で女性ファンの支持を集めている。 <旅のメモ> 小松から約1400キロ、2時間半のフライトで着いた那覇空港では色とりどりのランがお出迎え。ホテルに向かう途中、古民家居酒屋「なんじぁぁれ」(宜野湾市)で新鮮な那覇マグロ、もずくの天ぷらと初めて出合う。2日目は「麺家丸翔」(うるま市)でカツオだしの利いた沖縄そばの旨さに感激し、取材後は「あしびJima」(宜野湾市)でグルクンの唐揚げ、どぅる天(タイモの天ぷら)など滋味豊かな沖縄料理で打ち上げ。 <編集後記> 女3人寄れば「姦(かしま)しい」なら、洋服好きの明るく元気な4人が集まったらどうなるか。編集はもはや不要(不可能)です。聞き取れた範囲で言葉を拾いました。ほぼフルバージョンで4人のやり取りをお届けします。(鈴木)
83rd exhibition
sankaku
2025.04.18 fri. — 05.25 sun. ●4/18(fri.)-20(sun.) 沖縄 宗像堂さんのカトルカール、シークワーサーソーダ
photo by suzuki shizuka
対談:lifeを探して⑧岩田圭介「自分の『観たい』を形に」
2025.03.16
interview
対談「lifeを探して」8回目の相手は陶芸家の岩田圭介さん。一見武骨のようで温かく、遊び心や色気まで感じさせる作品はどうやって生まれるのか。創作の源流と展開に迫ろうと、辻和美が福岡県福津市の工房を訪ねました。(Tは辻、Iは岩田。対談は2025年2月末、福津市の自宅兼工房で。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)
T :岩田さんは彫刻科の出身ですが、どうして陶芸の道に進んだんですか。今更ながらの質問で恐縮なんですけど、まず始まりから教えてください。 I:もともと陶芸をやろうと思って彫刻に行ったんですよ。 T :えっ、そっちでしたか!それは意外でした。 I:父親が美学の先生をやってて、子供の頃からよく小鹿田焼(おんたやき)とか近くの窯まつりなんかにハイキングがてら連れて行かれたんです。育った添田町は炭鉱町で夜番を終えた炭鉱夫が朝から角打ちで酔っ払ってたりする荒っぽい所でした。それで窯まつりに行くと、むしろを敷いてすだれで陽を避けながらコーヒーカップの取手なんか付けてる。すごくのんびりした風景が広がっていて、いい暮らしをしてるなあと憧れました。中学ぐらいの頃から焼き物の世界に行きたいなと思ってました。 T :でも陶芸をやるなら高校の窯業科とか大学の陶芸専攻とかもあるのに、どうして彫刻科を選んだんですか。岩田さんの作品には陶芸だけ勉強してきた人には出せないような、彫刻を学んだからこその魅力を感じるんです。ワンクッション置いたから良かったのかな。 I:うん。いきなり焼き物やって誰かに弟子入りしてたら全然違ってたかもしれない。
T :瀬戸の河本五郎さん(故人)に弟子入りしようと思ったのは何かきっかけはありましたか? I:大学の4年、卒業する年にたまたまチケットをもらって行った現代工芸展で五郎さんの仕事を初めて見たの。それで「ああ面白いな」と思って。 T :すごく彫刻的な作品ですよね。器屋さんと言うよりも。 I:そう。色絵でバアーっと描いたりね。今まで考えてた焼き物とは全然違ってた。ここにあるのもそうだけど。 T :それですぐ弟子になったんですか? I:どうすれば弟子入りできるか、焼き物の先輩に相談したら、とりあえずどこかの専攻科であるていど基礎を覚えてから頼みに行った方がいいだろうと。それで多治見の専攻科に行ったわけ。1年のコースが終わる頃、頼みに行ったんだけど最初は断られた。当時、五郎さんの所には弟子が3人いて。もうちょっと粘ってみようと思ってるうち弟子の1人がインドに行って、帰国後も工房に戻らないと。それで先生から「もう1回来なさい」って声を掛けてもらったの。 T :そこでの修業は何年ですか。 I:4年半。土の粉を砕いたり、窯の作品、湯呑みのボディーを作ったり。毎日、それの繰り返し。 T :轆轤(ろくろ)で? I:粘土の板。たたらで作った。そればっかりだったな。大きな仕事を手伝う時もあったけど。
T:独立しようと思ったのは、何か仕事に手応えを感じるようになったからですか? I:もうじき30歳だったしね。先生の所にいる間も自分の作品を作って陶芸展に出したりはしてて。それは自由にやらせてくれた。その頃、瀬戸の陶芸協会展に小さな花器を出したら初めて1個売れた。そういうのもあったかな。 T:30歳での独立は怖くなかったですか? I:怖くはなかったね。ダメならバイトやりゃいいやと思って。 T:それで実家に戻って窯を作ったんですね。作品はどこで売ったの? I:最初の窯はガス窯だった。九州では「窯開き」って言って、自分の工房の一角を展示室にして、そこで見てもらって買ってもらうの。この辺の焼き物産地はみんなそう。知り合いも来てくれるし。それでなんとか食える程度にはなった。 T:それからの、作家としての転機は何だったんですか。 I:東京の赤坂に乾ギャラリーと言う所があって、元は名古屋にあって五郎さんの所にいた時にしょっちゅう出入りしてて、そこのおばちゃん(オーナー)が仕事を見てくれてて「そのうち個展やってね」って頼まれて。結婚した後だから、32歳だったかな。それまで博多では2人展をしたことはあったけど、個展は初めてだった。「納品書ないの」って聞かれたけど、何しろこっちは初めてだから納品書の書き方も何も知らなかった T:そうやって東京に出て、だんだん全国区の作家さんになっていったんですね。 I:乾でやった時におばちゃんに「こことここ回って来なさい」「作品持って挨拶しておいで」って何箇所かギャラリーを紹介されたの。その時は桃居(西麻布)は行けなかったんだけど、二つ三つ回ったらサボア・ヴィーブル(六本木)でコーナー展をやってみようかという話になって。やってみたら上々に売れて「あ、行けるな」と。その頃からかな、なんとかやれると思うようになったのは。
T:岩田さんの展覧会と言えば、Zakka(表参道)というイメージが強いんですけど、どんな出会いがあったんですか。 I:眸さん(吉村眸、Zakkaオーナー)が来たのは早かった。お店のオープン前だった。美智子(岩田美智子、妻、造形作家)の同級生のお姉さんが眸さんと仲良しで、そのツテで興味を持って添田の工房まで来てくれて、乾の個展も見てくれて。その頃、自分はいわゆる「美術工芸」的な器を作ってたんだけど、眸さんのお店に行ったら置いてある作品がカッコいいの。哲平ちゃん(小野哲平)とか村木さん(村木雄児)とかね。ちょっとショックだった。それで眸さんが「こんなの作って」って言っていろいろ教えてくれた。工芸の器とは全然違う世界だった。 T:生活者目線だから全然違いますよね。それでZakkaで展覧会をするようになったんですか。 I:割と早かったと思う。次第に常設で定着してきたので個展しようかって話になった。 T:岩田さんの代表作の急須もZakkaとの付き合いから生まれましたか? I:カフェ部門を作るから大きめの湯呑み3、4杯分が入るような急須を作れないか、って言われて。それまでやったことがないから最初は作り方が全然分からなかった。とにかくやって見たら形が崩れて穴が全部埋まってしまって「え、何」って感じ。それで哲平ちゃんに電話して聞いたら「そんなことも知らないの?」って驚かれた。急須は当然、内側に薄い釉薬を掛けるんだよ。穴はフッって息を入れて。それでようやくできるようになった。 T:それで1日1個は絶対に作るようになったんですか? I:何回か作ったら急に売れ出して注文に追い付かなくなって、それでも、頑張って、1日3個作ると、嫌になって「もういい」と思うようになった。苛々するぐらいなら1日1個にしようと決めた。そうすると、ストレスがなくなって、もっと時間をかけて丁寧に作れるようになった。今は1日1個のペースが丁度いい。 T:急須からのバリエーションで丸い片口も生まれましたよね。ズーマでもミルクピッチャーとしてよく使わせていただきました。あと、最近の作品は薪釜のモノもありますよね、窯を薪でたくのと電気で焼くのと、作るものにどんな違いがありますか? I:土を変える。それだけ。 T:それだけ? 仕上がりが違わないですか? 表面のテクスチャーとかのことです。薪では偶然性があって、電気焼成はコントロール可能に見えるんですけど。
2021年12月 穴窯の窯出しを見学させていただいた
2021年12月の穴窯の作品
I:大体そんな感じ。電気でも微妙には違うんだけども、ほぼ狙ったものを作ることができる。穴窯はやっぱり、土が全然違うし、置く場所によっても仕上がりが違ってくるから、予想以上のものになったり、ならなかったり。薪の作品はこれからも作りたいと思う。 T:岩田さんが作品作りで大事にしていることってなんですか? I:手を抜かないこと。時間に追われて慌てないこと。価格なども含めて広い意味で誠実であること。あとは、自分が観たいものを作ることかな。 T:いやいや、それは身に沁みますね。岩田さんはゼロから形を作れる人だと思うんですけど、若手の古いモノの写しの作品については、どう見ていますか? I:まあ、いいんじゃない?(笑) T:私もよく古い陶器の形をガラスに写すんですが、やはり、ゼロから作れる作家に憧れますね。 I:まあね。キム(キムホノ、瀬戸)さんとかね、その典型だけど。見ててもはるかに面白い。写しをする人は器用だよね。 T:何かこれから挑戦したいことはありますか? I:5月くらいに小さな電気窯を購入するんです。楽焼をちょっとやってみたいと思って。もう10何年もやってないんだけど。 T:その楽焼は、パリとかで作っていましたよね。一個持ってますよ。では、今回、金沢ではどんな作品を見せてくれるんでしょうか。 I:割とカラフルなものが多いかな。デカルコマニー(転写画)のね。佐々木美穂さんとの共作の碗。急須も出すよ。 T:楽しみです。会期中、カフェでは岩田さんの作品でお茶を飲んだり、お菓子を食べたりしてもらおうと思っています。
T:最後の質問です。ズーマの新しいお店には「life」という名前を付けました。lifeには命とか日常とか生活とか大切なものとか、色んな意味があるんですけど、岩田さんはlifeと聞いて何を思い浮かべますか。 I:うーん、分かんね。・・・まあね、思い付きだけで生きてる人間だから。やりたくないことはやらない。嫌な事からは逃げる。それが人生。
<略歴> 岩田圭介(いわた・けいすけ)1954年、福岡県添田町生まれ。日本大学芸術学部彫刻科専攻・卒業。多治見工業高校窯業科を経て表現としての陶磁器を追求した瀬戸の河本五郎氏の元で学ぶ。1983年、郷里の福岡で独立。国内をはじめ台湾、韓国、フランス、アメリカなど海外でも作品を発表。朝日陶芸展、焼き締め陶公募展などで受賞。2025年は金沢の後、蒲郡、奈良で展覧会を予定。 <旅のメモ> 初日の昼は福岡空港から車で約1時間の岩田家からさらにドライブして着いた宗像市の「こなみ」で。製麺所直営のうどん店は地元の食材を使った季節のうどんと昼呑みが楽しめる鄙の名店。夜は博多に戻って和食の「ようは」とミントを水耕栽培するピンクライトが怪しげな「MINT BAR HACCA」へ。翌日は人気のパン店DACOMECCA(ダコメッカ)、I’m donut?(アイムドーナツ)で行列。1000円で揚げたての天ぷらが食べられる「ひらお」でコスパの高さに感激。 <編集後記> 昼酒が入ってもあまり多くを語らない岩田さんを横から美智子さんがフォローしながらの小1時間。口数が少ないのは嘘が嫌いだから、誠実さの故と受け止めた。本当は理屈などいらない。ずっと見ていたい、触れていたい作品がそこにある。その幸せを改めて思う。(鈴木)
82nd exhibition
iwata keisuke
2025.03.21 fri. — 04.13 sun. ●3/21(fri.)-23(sun.) 岩田さんの器で楽しむコーヒーとお茶、そして月とピエロさんのお菓子
photo by suzuki shizuka
対談:lifeを探して⑦佃眞吾「『指物』『刳物』自在な木工」
2024.11.24
interview
対談「lifeを探して」7回目の相手は木工作家の佃眞吾さん。11月末からの展覧会を前に、滋賀県長浜市木之本町の新しい仕事場を辻和美が訪ねました。(対談は2024年11月半ば。構成・鈴木弘、写真・沼田万州美)
辻:立派な木造建築ですね。 佃:昭和の初めの建物で、以前は呉服屋さんだったそうです。玄関を入ってすぐの小上がりで反物を広げていたんでしょう。古い木の棚はそのまま作品の展示に使っています。もともと長浜の生まれで両親もこっちにいるし、いずれは帰りたいと思っていました。 辻:母屋に作業小屋に離れと広い駐車場もあってびっくりしました。制作しながら作品を見せていくのには、素晴らしい環境ですね。 佃:前は母屋の裏に蔵が3つあったそうです。空家バンクで見つけて運よく手に入れることができました。北国街道沿いの街並み保存ということで改築には市から補助金をもらっています。2年前から工事を始めて、少しずつ京都の家から物を運んで、今年中に引っ越しを終えるつもりです。仕事場が広くなるので弟子も2人取りました。
辻:木の仕事が長い佃さんですが、始めたきっかけから教えてください。 佃:大学は経済学部で、もともと芸術系じゃなかったんですよ。卒業して大阪で額縁屋の営業をしたんだけど半年で辞めて。漠然と大工になりたいな、と思っていました。当時はログハウスが流行っていた頃で、カントリーライフに憧れがありました。ちょうど音楽の友達の実家が京都で家具を作っていて、そこで雇ってもらえることになりました。それが木の仕事の始まりです。 辻:どんな家具を作っていたんですか。 佃:店舗やマンションの作り付けの家具です。トイレとか下駄箱とか。材料は大体ベニヤでね。3、4年経って、そこそこ出来るようになると、木工は木工なんだけど何か違うなと思うようになって、黒田辰秋さん(木漆工芸家、人間国宝)の息子さんの乾吉(けんきち)さんが講師をしている木工塾に通うことにしました。
辻:厳しい塾だったんじゃない? 佃:コアな感じでした。まずは刃物研ぎから。家具の仕事が終わってから週に3日、そこで刃物を研いでいました。1年ぐらい。刃物が研げるようになったら、それでお盆を彫る。お盆が彫れたら漆を塗って仕上げる。一貫して自分で作り上げる木工の塾でした。でも何も教えてくれない。みんな自習でやっていました。 辻:鍛えられましたね。 佃:面白い人が多くて刺激を受けました。そこで工芸も民芸も知ったんですよ。漆も初めてだったし。そうするとベニヤの仕事じゃ物足りなくなって指物の仕事を探して職業別電話帳を見て片っ端から電話しました。大体断られましたけど、話を聞いてくれた轆轤(ろくろ)屋さんが指物(さしもの)屋さんを紹介してくれて。その指物屋さんは木工塾に通っていた頃、日曜ごとに指物を教わっていたベテランの職人さんで、辰秋さんの下請けをしていた人でした。その方が戦前の丁稚時代に修業していた指物屋が井口木工所で、箱から箪笥まで木のものだったら何でも作る和家具の工房でした。初出勤の日は1995年1月17日。阪神大震災が起きた日だから、よく覚えています。そこに27歳から37歳まで10年間いました。
辻:そこから、作家になろうと思ったのはいつ頃ですか。 佃:最初は職人として独立するつもりでした。それが木工組合の展示会のために何か作ることになって公民館みたいな所で10人くらいでやっているうち、京焼の陶芸家から「2人展をしないか」と誘われて。貸しギャラリーで3日間だけの展示でした。続けているうちに京都・大丸でも2人展を開くようになりましたけど、独立後も8割方は前いた木工所からもらった職人仕事でした。 辻:では、手応えを感じるようになったのは、何かきっかけがありますか。 佃:ネットか何かで見た四日市のギャラリーが声を掛けてくれて、陶芸家の高仲健一さんと2人展をやったのが作家としてのデビューです。高仲さんは同い年ですが、李朝の写しとか作って既に有名でした。それを見た銀座の日々(にちにち)さんから話があって個展をすることになりました。多治見の百草(ももぐさ)は作品を段ボールに詰めて持ち込んだら、安藤雅信さん(陶芸家)に「これいいじゃない」「どんどん見せて」と言われて京都展を開くことになって。百草で偶然お会いした三谷龍二さん(木工デザイナー)も「なかなかいいね」と太鼓判を押してくれました。
辻:百草で見た作品、覚えてます。お椀もお皿も「揺らぎ」があったのに驚きました。私が知っている漆のお椀は、カチンとしたものが多く、ひとつひとつを見て選べるのがとても新鮮で。木工作品と言うよりガラスとか焼き物に近い感じがしました。 佃:木工の仕事のうち指物は理知的で計算づくです。一方、刳物(くりもの)は計算づくじゃなくて彫刻に近い。僕の場合は彫刻的な刳物を計算づくで作ってるんです。何となくは作らないかな。 辻:そこに感動したんです。金沢に住んでるときれいな輪島塗のピシっとしたものばっかりだから。 佃:昔のお椀の作り方は生木だったんですよ。実は、昔の作り方を沢山研究しました。今は機械で回転させるから真円になるんです。漆を塗った後も機械で回転させて研ぐからピシーっとなっちゃう。昔は手回しでゆっくりの回転だから生木でないと硬くて削れないんです。その作り方でできてるから自然な感じになるんです。
辻:なるほど、それが今、私たちには心地よく感じます。では、佃さんが、制作する上で大事にしていることは何ですか。 佃:こんなの作っても売れないだろうなというものが、誰か買ってくれる状況になってきたから諦めないようになりました。作りたいものを作っていいんだと。 辻:作りたいものって? 佃:一点物を作りたいんですよ。たくさん作れない大きなもの。蓋物でもお椀でも、自分が素直に「この木で作りたい」と思うもの。その時その時作りたいものをやらないと駄目だなと思う。あと何年できるか考えながら仕事しています。 辻:木の木目についてはどうですか。よく、銘木を探しに行ってますよね。(笑) 佃:木目のマニアなんです。レアなものが欲しい。誰も持っていないレアな木目。植物が素材だからどの木目を選ぶかで作品は決まるんですよ。だからそこは譲れない。建築でも家具でも木にはTPOがあるから、作るものによって木の種類は決まってきます。
辻:これから取り組みたいことは。 佃:ずっとやってなかった家具を作りたい。作品を見てもらえるスペースもあるし。自分のルーツに戻ったんだから、この土地に何か貢献したいって言うか。この土地にこういう木工をやってる場所があるんだ、という所になればいいかなと。木工の文化として貢献できればと思います。 辻:では恒例の作家皆さんに聞いているんですが、ギャラリー名に「life」と言う言葉が付いています。ここから浮かぶことは何でしょう。 佃:いわゆる「生活」って頭の中にないんです。仕事がマイライフ。寝る直前まで仕事していますから。朝9時から夜中の1時まで仕事場にいるんです、毎日。仕事しかないんですよ。時間は全部、仕事に費やしたい。 辻:いやー、そうですよね。作り手って結局きちんとした生活は出来ないですよね。さあ、金沢の個展楽しみになってきました。どんな作品を見せてくれますか。これまでの展覧会はいつも年をまたぐから年末の前半が洋物、年初めの後半が和物という構成でした。 佃:撮影用に送ったちょっと大きめの箱を1点。台があるから一点物を3点ぐらいポンポンと置いたらどうかな。後はいつも作ってる使えるようなものを持っていきます。
<略歴> 佃眞吾(つくだ・しんご)1967年、滋賀県長浜市生まれ。1990年から京都で家具作りの研鑽を積む。その傍ら黒田乾吉木工塾に通い、木漆一貫制作を学ぶ。京指物の井口木工所で家具・指物職人として働いた後、2004年に京都・梅ヶ畑で独立。2024年、郷里の長浜に新しい工房を構える。国画会工芸部会員。 <編集後記> 宿場町の風情が残る木之本町の中心街。その中でも一際立派な店構えの商家が「木工藝 佃」の新しい工房でした。朝から晩まで、日付が変わっても仕事場にいると言う佃さん。郷土への愛を滲ませながら今後の仕事を語る笑顔が静かに輝いていました。(鈴木)
81st exhibition
tsukuda shingo
2024.11.30 sat. — 2025.01.05 sun.
photo by suzuki shizuka
対談:lifeを探して⑥矢野義憲「並行する『作る』と『生きる』」
2024.10.20
interview
対談「lifeを探して」の6回目の相手は木工作家の矢野義憲さん。10月下旬からの展覧会を前に、辻和美が福岡の工房に矢野さんを訪ね、置かれた場の空気を変える骨太で繊細な作品の背景を伺いました。(Tは辻、Yは矢野、写真・辻和美)
T:表現の素材として木を選んだ経緯や理由から教えてください。 Y:元をたどるとやっぱり親の影響というのは大きいですね。表現をして生きていくのを目の当たりにしてたので、それがいいなって思う環境で育ちました。母は絵描きをしてて、自分もやってるような気持ちでアトリエにいて、とりあえず横で描いてたりとか。高校生ぐらいになると母の知り合いで素描のすごくいい人がいて、その人の絵がすごく好きだったので、真似じゃないけどボールペンで僕も描くようになったんですよ。ボールペンと鉛筆でデッサンとか、綺麗なものじゃなくてもいいからとにかく何でも描いて、色とかも自分が見ている色を疑うとか、いろんなことをテーマに考えました。 T:お母様からいいアドバイスをもらったとか。 Y:世の中に上手い絵描きはいっぱいいるけど空気を描けるようになったら誰にも負けないと。キャンバス内のことで言うと、対象を描くのではなくて、気配とか空気感が描けるようになりなさいよと。それが1本の線かもしれないし、1色の色ペンちょんだけかもしれないけど、人それぞれだからそれを描きなさいって言われました。多分、描いて描いて描き続けた人だけに見えてくるものなのかもしれないんですけど。それは今でも考えてます。 母親の知り合いは変わった人間が多いんですよ。芸術家なんで本当変なんです。本当に変な彫刻家とか、偏屈なおじさんとか。そんな人が周りに溢れてて。世の中にはこういうふうに生きていける人もいるんだなと思ってました。
T:最初は絵で、それがどうして木に? Y:親戚が木工所をやってて、母がそこで仕事をしていた関係で切れっ端をもらって母も彫ったりしてたんですよ。子供の頃、年賀状は版画だったから毎年ゴム版を彫ってました。木の切れっ端が色々あるからホームセンターでナイフを買ってきて、球体とかロープとか作ったりしてましたね。 大学の頃はしょっちゅう山に行って焚き火をして泊まってました。卒業してからは就職する気もないんでアルバイトをしてた時に、ネイティブアートっていう先住民族の美術に会うんです。日本やモンゴルも含まれる環太平洋のネイティブアート。その昔、大陸から民族が移動して文化が何万年もかけて広がった。それを研究してる会社で働き始めて、美術とか音楽とか技術とか、現地のアーティストを呼んでというのをやってたんです。向こうの人は形は形だけども、かなり意味の方が大事で、それがどう置かれてるのか、どう使われて何故これなのかっていう背景がこれですよ、っていう物作りが文化として発達している。 そういう所って昔で言うニューエイジ的な人たちが集まるんです。インディアンの思想とかそういうのを持つ人たちとか。ちょうどその頃「エコロジー」っていうものが普及し始めて、日本でもISOやりますよと、海外基準を導入していきますよっていう時代だったから、海外からそういう人たちが講演に来る機会が多かったんです。 自然環境とか動物とか文化とかに興味がある人たちが集まる所だったから自然と友達になるわけです。そこにスウェーデン人のジャーナリストがいて、文化的なディスカッションをする相手としてしょっちゅう会ってました。それでストックホルムのど真ん中で自給自足の循環型コロニーをやってる人たちが来るから講演会で九州を回る運転手をやってくれと頼まれたんですね。 僕はインディアンとかアボリジニとかの生き方に憧れてたので地球の文化に基づいて暮らしてる彼らの生き方こそ最高のエコロジーだと思ってました。やっぱり自分が表現して、背景がしっかりある、そういうもの作りをしていきたいんだよねって。美術芸術と生活が分離してなくて人生が表現という生き方がしたいみたいなことを夢見がちに語る時間が何日も続いて。で別れ際に僕は山でいつも彫ってた、ちっちゃな置物っていうか、何か訳の分かんないものをあげたんです。それが多分、僕の木工の始まりだと思うんですよ。
T:それがスウェーデンに行くきっかけ? Y:その彼が帰国後、スウェーデンにいい所があるぞと家具の学校を紹介してくれました。ガーデン、陶芸、テキスタイル、木工の4つの学科があって、ガーデン科が食事、野菜も庭も作るし、パンも小麦も、今でいうオーガニックフードみたいなので食事当番はみんなで回して。シェアハウスが3軒ぐらいあってそこでみんなで暮らしてて。木工科も自分たちが切り倒した木で作って。全てが自給自足みたいな感じ。余剰分は販売して学校運営に充てるっていう。 カール・マルムステンっていう家具デザイナーがストックホルムに家具職人の学校を作ったんだけど、そこは技術の継承のためで、自然共存型の哲学を形にするためにもう1ヶ所、カペラガーデンという学校をかなり離れた島に作ったんですね。そこのサマーコースに彼らがもう申し込んどいたからなって連絡があって。自分がしたいことに近づける気がしたから、すぐに仕事を辞めて、言葉も喋れないけど行っちゃった。 T:すごい!何歳の時? Y:24か25ぐらい。北欧家具がいいとか何とかまだ全く知らない、ただ物が作れたらいいと思って行ったんだけど、1ヶ月相当楽しかったんですよ。なんか開放した感じ。嘘みたいな時間だった。3年間の本科に入ろうとビザの延長を申請して、学校をうろうろしているうち先生に「本当に家具屋になりたいのか」「ここはキャビネットが作れてマイスター資格をとって卒業だ」って言われて、これは違うなと気が付いた。それでヨーロッパ、アジアを回って帰ってくるんです。 でも学校で一番感動したのが、器彫りだったんですよ。当たり前ですけど、手を動かしたら、もう対象物の形が変化するっていう。それまで平面上の世界しか知らなかったからすごい新鮮だったんです。帰ってきたら、まず形から入ろうって、東京の有名な刃物屋さんに行ったら、「家具屋じゃ食えないよって」って言われて。どうせ食えないなら好きなことをして食えない方がいいと思いました。 T:それで木工作家を目指したわけ? Y:いや、まだ。母の芸術家仲間に現代彫刻をやってる人がいて、その人の息子さんが木工やってると。遊びに来たらいいって言われて、行ったんですよ。それが縁で3年半ほど、弟子のような生活を送ることになるんです。生意気だったせいか、そのうち植木屋さんとか農家さんとか採石場とかにアルバイトに行かされる生活が始まったんですけど、現場で職人さんと働くうちに色んな技術を学ぶ事ができました。 先生の家には酔っ払っていろんな人が来るわけです。僕は貧乏でお酒を覚えたらお金が掛かるからずっと我慢してましたけど。上の世代の絵描きとか彫刻家とか焼き物屋さんが集まって工芸とアートとその辺について議論するのをちょっと冷めた目で見ていました。そのうち精神的にもまいってきて、結婚を機に独立しますって宣言したら酔っ払ってる先生から「百パーセント無理」って反対されたけど「絶対やり遂げます。ありがとうございました」って言って出たんです。「意地でも木で食ってやる」と思って。それが木工を素材として選んだ理由です。 T:興味深い修業時代ですね。反骨心が原動力になったんですね。(笑) Y:反骨でしか生きてない。そんな人間だから、個展は年に1回しか絶対にしない。しょうがない小銭稼ぎやってる姿を見られたくもない。年に1回、島のお客さんも船じゃないと来れないような所で博物館を全部貸してくださいって。安易にその辺のギャラリーでするなんて許さない。全てが闘ってるっていう意識でした。それで10年間はこのスタイルを変えないって言って、40歳になるまでは個展は年に1回しかしない。媒体には出ないし宣伝もしない。情報も入れない。先生にも連絡はしない。とにかく歯を食いしばって生きていくって決めて10年間やったんですよ。
T:その後、一躍注目を集めるんですね。 Y:いやいや、東京で焼き物との二人展の後、九州の雑誌の表紙に取り上げられて、先生の所に挨拶に行きました。唐津の人と知り合ったり、ファッション誌の取材で料理家の細川亜衣さん(熊本)と出会ったのもこの頃です。ギャラリーをしている細川さんから展覧会の話があって、そこからいろんな人との繋がりができました。 T:モビール、大きな立体、中国茶の道具、家具的なものとか、幅広く作ってるけど、この表現の幅はどこからくるの? Y:さっきの話とかぶってくるんだけど、平行線上にあるものってことですね。美術とか工芸とかっていうジャンル分けは僕はいつも「どうでもいい」と言ってるんです。人を傷つけるような言い方をするのは昔の全否定時代の僕のちょっと悪いところなんですけど、それはもうそういうことを言ってる段階で違うんだと僕は思うんです。作ることと生きることが平行にあって、それがモビールであっても家具であってもオブジェ、アートであっても、僕のライフという道が平行に走ってるだけっていうので。 それまでずっと手の平に収まる世界が続いてたんです。自分の作りたいものしか作ってなかった。それが人に使われて人に喜ばれるっていうものを知ったことで、対価としてお金をいただける、生活も少しは回るようになってきた。ただ求められるものも当然増えるわけですよ。今までは提案するだけだったけど。それを人との出会いっていうものを喜びに変えて、物を作るっていう。使ってもらうというのも人と出会えるきっかけだったんです。 やっていくうちにどんどん個展も決まり始めて、2年間、3年間とか。もう自分が壊れるなっていう寸前に怪我をするんですよ。やってしまった反面、やっと終わったっていう感じもしたんです。
T:なるほど、大変でしたね。ちょっとドラマみたいな。そちらの話を膨らませてなくて申し訳ないのですが、話を作品に戻していきますが、私は矢野さんのモビールが好きなんですが、モビール始めたきっかけとかありますか? Y:修業中はお金ないじゃないですか。でも彼女誕生日だったんですよ。誕生日に何かプレゼントをあげたいけど、お金がない。それで粘土で作ったものをあげようと作ったのが一番最初のモビールです。鳥と卵が付いてるモビール。焼いてね、だから最初のは陶器です。修業先の先生もお父さんの大先生もカルダー(アレクサンダー・カルダー)っぽいモビールを作ってたんですよ。それが頭の片隅にあったんだと思います。それで鳥を作り始めるんです。夜でもポリポリ彫れるしね。 それから老人介護施設に置く話をいただいて、ホールの真ん中に吊るしてあるモビールを認知症のおじいちゃんおばあちゃんがほけーっと見上げてるわけですよ。それがなんか写真に収めたくなるようないい景色だったんです。話が遡るけど、その時に「空気」があったんです。場所を作ってたんですよ。要は作品じゃなくて、作品のある景色とか風景ができて、写真を撮りたいという感情が生まれたんです。あぁこれだと、母が言っていた「空気を作りなさい」というのはこのことかと。よく思うのは、存在の「ある」っていうのがものすごく好きで、ただあるだけ、だけど確実にそこにある、ないと困るみたいな。そういうものなんだっていうのに気付いてそれからモビールを作るようになって、本格的に。なるべく目立たないように作ろうかなっていうのがモビールの始まりですね。
T:形は違うけど、全ての作品に共通点を感じますね。 Y:そうだと思います。存在してるっていうことでそこが成立してるものっていうものを作りたい。 僕の中で実用っていうものが上じゃないんですよ、物に対する考え方が。だからそこに「ある」ということが上なので。じゃあ使い手のことを考えてるかって聞かれたら、考えてなかったりするんですよ。 その時によく思い出すのは大先生が「穴が開いとったら物が入るけん器たい」「平らやったら物が置けるけん机たい」「座れたら椅子たい」って、いつも言ってたんです。それが今でもぱっと出てくる。だから、それが「ある」っていうことが一つの用途であって、あとは危険じゃないっていうのは当然ですけど、それ以外は誰が手に取るかの問題だと。 T:お茶道具はいつから? Y:茶道具っていうのがまだ難しくて。僕は日本茶、抹茶をやってたんですけど。福岡に昔、玉屋デパートっていうのがあって、そこの会長が持ってる迎賓館が今はもう国が管理してるんですけど、そこに日本庭園と茶室があって。その頃は権力と闘うことが個展だと思ってたから、国のものでも何でも「ここで個展がしたいです」って言いに行ったんですよ。「ここでお茶会がしたい。ちなみにお茶の経験はありません。けど、お茶の世界を知るためにここで個展がしたい」って。当時からお茶椀は作ってたからね。 初個展の時の島の博物館の館長さんがお茶の先生だったんです。お茶は自由だけど世界が狭いっていう話をいつも聞いてて、その先生ももっと開放しなさいみたいな人だったんですよ。僕はすごくその言葉に励まされて。木じゃダメだって誰が決めた、みたいな。使いにくいって分かってて作ることこそ闘いだ、みたいな。これで飲めないんですか、みたいな感覚だった。 それが1回目が好評で、なんかどんどん茶人が集まってくるんですよ。イスラム教徒の茶の先生と出会って、それがすごく面白いんです。自由にやらせてくれたんですよ。「僕たちは茶人だからどんなものでも見立てるし使いにくいものは使わないし」って言って、結局、お茶会を僕の道具で全部やってくれたんですよ。 T:まだ30代ですよね。さすが! Y:そういうのは全然怖くないですね。全く怖くない。床の間の軸の代わりにモビールがあったりとか。花の絵じゃなくて植物が風に揺れている姿です、みたいな感じで。ちょっとうんちくも嘘言いながらでもやったりとか(笑)。窮屈な世界って言ってたけど、意外に人と出会うことって自由だったんですよ。お抹茶ってめっちゃ自由だと思って。本当のおばちゃまたちが着物で座ってるところにパカって半分ひびが入ったような茶わんで。それはそれでカッコいいんじゃないかと僕は思って。でも批判されることもいっぱいあった。これ誰々っぽいとか、木で茶わんなんて意味ないとか。いやいや分かってるよそんなこと、そこで向き合いやり続けて闘ってるっていうのが表現だから、そこを汲み取れないあなたはお茶に向いてない、っていつも言うんです。それぐら自由にやれた。 T:中国茶の道具も手掛けてます。 Y:中国茶は自由と見せかけてめっちゃ不自由なんですよ。なぜかというと道具の制約が多いから。お抹茶の場合、最低限必要なものって茶入れ、茶杓、茶わん、建水ぐらいですよ。あとは水指か。炉とかはもう僕らの世界じゃないんで。中国茶はより繊細で、ものが小さい。注ぐときの筋とか、音とか。所作も。もうすごい考えなきゃいけないわけですよ。難しいし面倒くさい。でもこの間の(ズーマの展覧会に出品した)茶箱は面白かったです。
T:最近の興味とこれからやりたいことは。 Y:本当に好きな木っていうのはクスノキなんです。最初の10年間はクスノキ以外は触らないというルールを作ってたぐらい。修業していた所の人たちの考え方もあったんですけど、すごくいろんなことを助けてもらった木だったので。 クスノキは樟脳っていう昔の防虫剤を作る材料なんで食器としては使いづらいんです。香りが強いっていうことに人を拒絶してるっていう自分と重ねてました。人の暮らしに近づかない、こっちから拒絶するっていう意味で「使えない器」っていうシリーズを作ってて。それは高台はなくてボウルの形をしてます。用途として使うんではなくて、手で包んだものをゴールとする。あなたが手に取ってアッて思った瞬間に完成だと思ってる、っていう作品をずっと作ってたんですよ。 木は全部自分で集めてたんで、どこで切り倒された木です、枝打ちした木ですっていうと、器を持ってあの木に行ったら多分その木があなたにとってちょっと特別な木になるんじゃないって。実際手元にあるものがまだ生き続けてるってすごくないですか、っていう自分の感動を伝える10年間をしてきたんです。 人は正直拒絶するけど木ってずっといてくれるっていう安心感っていうんですかね。裏切らないというか、こっちが応えさえすれば。だから未だに神社の木にお参りに行ってます。 木に会いに行くっていう時間も作品だし、そこでどう感じるかっていうのも作品の印象に大きくっていうね。何かその流れが僕は好きだったんですよ。 それから木を使って人と関わってお金を得ていくためにはって考えて、クスノキを全く使わない時間が始まるんですよ。全く使わない期間がずっと流れて食器とかそういうのを作っていって。それでちょっとまたワープして、怪我をする瞬間にいくんですけど、何となくクスノキの樹齢1500年の木の枝を使って器を作ろうとしたんです。すごい忙しいときに大きな木を出してきて。何か威張りたくなったのかな。仕事し始めた瞬間です、怪我したのは。そういうことかと、やっぱり何も繋がらずしてものを作ってはいけないんだなと。で今度は気持ちがクスノキにぐんと向かうんですよ。そしたらやっぱり面白いこの木ってなってどんどん作り始めて今。それがkankakari(京都のギャラリー)で出したのが、こういうクスノキばっかり。それでこれを受け入れてくれる人たちがいるんだ。やっと受け入れてくれる人たちが出てきたと思って。今は100%はもっていけないですけど、並行してできる状況になっていけばいいなと。決してこれだけでは無理だしそんなに天才じゃないから、そんな形はいっぱい作れないし。でも器だけだと多分僕はまた壊れてしまうので。ちょうどいい方向で今から行ければいいなと思って。今一番その中で見つけてるのがやっぱ箱なんですよ。一つの形だけじゃなくて何かそういう自分が気持ちを満たせる両方があるかなと思っているので、箱はすごく可能性を感じています。
T:じゃあ対談のテーマ「ライフ」で思い付くのはどんなこと? Y:並走している感じですね、表現と。決してアーティストっていうのは好きじゃないし。それがないと面白くないですね。だから常にしていたい、という意識が強くて。並走。決して一緒になってる感じじゃないんです。あとはね、負けたくないんですよ。とにかく自分がいいと思うんだったらいいと思い続けていたい、そういうマインドはあります。
T:金沢の個展はどんな風になりそうですか? Y:考えてはいるんですけど、まだまだ形になってないから軽はずみには言えないんですけど。あと3週間ありますね。これからが一番面白いところです。箱は今回も出すんですけど、ちょっと大きめにしました。あとは球体とか。板も出します。今から茶海とか片口とか作ります。器を並べるだけというのは想像できない。見てて、一緒に居て、いい空間になればと思います。以前の個展より、もっとあの場所を意識した展覧会にしたいなと考えてます。
<略歴> 矢野義憲(やの・よしのり)1973年、東京都生まれ。スウェーデン・エーランド島の手工芸学校「カペラガーデン」で家具作りを学ぶ。2000年、木工造形作家の元で制作を始める。2003年、福岡県糸島市に自宅と工房を構える。美術の領域から自由な作品を国内外で発表。 <編集後記> 矢野さんの作品に魅了されて福岡の糸島の工房に初めて訪れたのは、5年くらい前です。それからもう3回くらい訪れました。いつも盲導犬になれなかった人好きのラブラドール・レトリバーのフランキーが優しく迎えてくれます。矢野さんとはこんなふうに、なんでもない話をダラダラといつまでもしてしまいます。今度は金沢でお待ちしています。(辻和美) 注)記事内の作品の写真は前回のfactory zoomer /galleryでの展示風景を使用しております。今回出品の作品とは異なります。 80th exhibition
yano yoshinori
2024.10.25 fri. — 11.24 sun.
●10/25(金)謝小曼さんの茶会を開催いたします。それに伴い10/25(金)はお茶会にご参加の方のみのご入店とさせていただきます。※ご予約受付は終了致しました ●10/26(土)12:00~15:00までお時間は、事前ご予約制とさせて頂きます。※ご予約受付は終了いたしました。
対談:lifeを探して⑤井山三希子「道具としての器作り」
2024.09.15
interview
対談「life」を探しての5回目は陶芸家の井山三希子さん。シンプルでモダンながら温かみがあり使いやすい。毎日の暮らしに寄り添う器はどんな思いから生まれるのか、金沢ではどんな新作を見せてくれるのか。9月下旬からの展覧会を前に、辻和美が聞きました。 (Tは辻、I は井山、対談は2024年9月はじめ、東京都八王子市の井山工房で行った。文と写真・鈴木弘)
T:井山さんと私って同世代じゃないですか。正確には井山さんが一つ下なんだけど。(笑)今みたいにインスタなんかがない時代、展覧会の案内が来るたび「ああ、頑張ってるなー」って思ってました。DMを見ると私も励みになって、もうちょっと頑張ろうって。そんな意識をする相手でした。 I:いえいえ。私より1歩も2歩も前ですよ。扱う素材が違ってよかった。(笑) T:それでちょっと古い話からになるんですけど、井山さんが今の作風、型にスライスした粘土を入れて焼くスタイルを始めたのはいつ頃だったんですか? I:前職がギャラリーの仕事で、その頃に陶芸教室に通ってて、ろくろをやってたんですね。それから職業訓練校に行って。やっぱり独立したときはろくろで作りたいと思ってたんですけど、結婚した相手が高校から大学までずっとろくろを専攻してて、家にろくろが1台しかなかったので、2人で一緒には轢けないから、それで自分ができることが型だったんですね。それからもう型をやり始めて。 その後、ギャラリーさんから展覧会の話をいただいて、ろくろでって言われたから「1年ください」ってお願いして、練習したんですけど、やっぱり高台は削れないし中心は出せないし。べちょべちょの土が手に付くのも苦手で。でも、もともとプロダクトとか建築とかの方がやりたかったので、そういう意味では今、型の仕事でこういうデザインしたりっていうのは向いてたのかもしれない。
T:当時、陶芸で型の仕事をしてる人は他にもいたんですか? I:いましたよ。それこそ北大路魯山人とかも。魯山人は木型で向付とか作ってます。職業訓練校では製陶所に入れるように、ろくろや釉薬の勉強のほかに石膏もかじってました。 T:じゃあ、お皿とか器とかを作って出していくことは「職業」って感じ? I:そうかもしれない。陶芸家っていうのも嫌だし、アーティストとかいうのも嫌だし。食器屋かな。どうでもいいんですけどね、名前は。器を作って道具を作る人。前職が現代美術のギャラリーっていうのも大きかったかもしれないけど、アーティストなんてとても恥ずかしくて。 T:でも肩書きって要るでしょ。どこまでが許容範囲? I:その辺は意固地にならずに、陶芸家って言われたらそれで流してますけど。やっぱり自分の中では道具を作る人。
T:型はどんな風に生まれるの? インスピレーションの始まりは? I:一時、機内食の食器やカトラリーを見たりとか。やっぱり古いものを見たり、アンティークもそうですけど、古いものをそのまま写したりとか。今回ドイツに行ってもプラスチックのものを見たりしました。自分の使いやすいサイズとか、結局、手に取るものって結構同じものだったりするので、気に入った形があったらそれをサイズ展開していく感じです。オーバル(の皿)とかがそう。 T:そうですね、確かに井山さんの作品は。大体SMLがありますよね。それで何年目になるの? I:独立したのが28歳だから、これで31年ですね。 T:その中で廃番になったものもある? I:ありますよ、もう山のように。また引っ張り出して直したりもするんですけど。石膏と土って相性が悪いので、土の中に石膏が入ると土が駄目になってしまうんで、前は8月とか7月とか1カ月間、夏の間は石膏の型を作るというのを毎年やってて、秋から新しい作品を少し出すという感じだったんですけど、今はちょっと展示会が続きすぎてますね。 T:一番最初はスチレンボードとか削って作るの? I:原型は土です。デザインしておいて、粘土である程度形を作ったら、周りに段ボールで囲いを作って石膏を流したら雌型が出来るんですけど、雄型はその雌型にもう一度石膏を流すわけです。 T:あー、だから型で作っている器なのに、形が柔らかいのね。 I:優しく言ってくれますね。知り合いのデザイナーからは「ちゃんと平行を出して」なんて言われますよ。
T:はたから見てると、井山さんは趣味がいろいろあるじゃないですか。以前は猫を飼ってたり、水泳とか、あと旅行とか。そういうのが制作の助けになってる? I:水泳はできなくなったら結構すごいストレス。前は毎週4回行ってました。今は週3。もともとは肩こりがひどかったから。石膏型で指を使うから右の肩が上がらなくなって、髪の毛も梳かせない、布団から起き上がれないぐらい。前は鍼を打ってたけど1週間たったら戻っちゃう。だから体を倒しながら作ってました。30代前半の頃です。それが知り合いから「泳ぐといいよ」と言われたのがきっかけで、泳ぎ出したらはまって、肩こりも無くなりました。仕事終わりに泳ぎに行くのは体をほぐしに行ってる感じ。整えるというか。だからみんなに泳ぐの薦めてるんですけど。
T:あとはさ、井山さんの制作とか、ギャラリーの選び方とかを見てると、展示する場所の人と一緒に作るというか、打ち合わせを結構大事にしてるなと思うんですけど。 I:声を掛けられたのは何か理由があって、求められてるものがきっとあると思うので、話を聞きたいし、お客さんのことを知ってるのはそのギャラリーの人なので。初めての所はよく分からないから必ず展覧会の前に伺うようにしています。 だんだん年齢とともに常設にシフトしてますね。手伝ってくれてた人が抜けるし、来年からは展覧会を減らして1人でやっていこうかなと。これまで取引のあった所にダンボール2つぐらいを定期的に送って、もし難しいものは半年ぐらいたったら戻してもらうみたいなやり方で。自分が今作りたいものを作って、ある程度ギャラリーの希望も聞いてまた作品を送るっていう感じでもいいのかなと思ってます。 T:その中でも中国、韓国と海外の展覧会はちょっと増えてる? 日本と求められるものは違う? I:中国も上海はもう10年になります。今回初めて韓国に行って、韓国でも中国茶がすごい流行ってたし、ちょうどお茶のフェアみたいなのをやってて、行ってみたら人気ぶりにちょっとびっくりしました。上海も北京もやっぱりギャラリーから中国茶の道具を必ず持っていくように言われますね。 T:中国茶の道具はどうですか、作っていて楽しいですか。 I:道具の大きさなどがよくわからず、同じ形を2回か3回ぐらい作り直した記憶があります。勉強していく時に作品のバリエーションも広がっていきますね。それに合わせて自分がどんどん作れるわけではないんですけどね。お茶の種類とか道具とか、中国茶は奥が深過ぎて、これ多分一生やっても覚えられないです。向こうの人たちが今まで中国茶で使ってた道具じゃなく、ちょっと異文化が入って同じアジア圏でもまた日本人が新しい感覚で作ったものとか、新鮮なんではないでしょうか?
T:この4月にオープンしたお店は「factory zoomer /life」って名前なんですけど、lifeって英語にはいろんな意味があって、生活とか日常とか人生とか宝物とか、場を盛り上げる人とか。ありふれた名前なんだけど、意味が意外と深くて。で、突然ですが、そのライフっていう言葉からは何が浮かびますか? I:イメージするのは「生活」かもしれない。軽やかなイメージなのかも。生活、家族、日常・・・うーん。 T:じゃあ最後に、今回金沢ではどういう作品を見せていただけるのでしょうか? I:今までの定番プラス少しだけ新しいことは辻さんからお題をいただいたイエローです。今までイエローはレモンイエロー一色だったんですけど、グラデーションをつけたりちょっとラインを入れたりっていうのが今回初めてです。いろんなものにラインを入れてみたんですけど、やっぱりシンプルな丸の形が一番合ったので、カップとかお皿とか、ちょっと小さいものに限ってるんですけどラインを入れました。 T:黄色に合わせてこちらではちょっとデザートでフォローさせていただきます。1週目のときに井山さんの黄色い器でプリンが食べられるようにしたいと思います。色は面白いですよね。基本的に白と黒がベースにあるから、それに対して何か色が入るのはね。井山さんはもうfactory zoomer /lifeの一部です、常設に欠かせない作家さん。展覧会、楽しみにしてます。
<略歴> 井山三希子(いやま・みきこ)1965年、東京生まれ。佐賀町エキジビット・スペース勤務の後、愛知・瀬戸の窯業職業訓練校を修了し、愛媛県で独立。2008年から東京・八王子に制作の場を移し、現在に至る。福井から始まった今年の展覧会は、ソウル、大分、金沢の後、鳥取、上海でも開催の予定。 <編集後記> 「文は人なり」というけれど、井山さんを見ていると「器も人なり」という言葉が自然に浮かぶ。出過ぎず、潔く、清らかに。自身が暮らしを楽しみ丁寧な毎日を送っているからこそ、使い手が求める形が生まれてくるのではないか。そんな気がする。(鈴木)
79th exhibition
iyama mikiko
2024.09.20 fri. — 10.20 sun.
●会期中の週末は、井山さんの黄色い器を使って黄色いデザートをご用意いたします。 ・9/20~22 スーさんのプリン ・9/27~29 miette(高知) のエッグタルト ・10/12,13 ロヴァニエミ(札幌)のレモンケーキ ●9/20(金)12:00~14:00までのご来店は、事前ご予約制とさせて頂きます。 ※ご予約受付は終了いたしました。
対談:lifeを探して④ 挑戦続く「再生の青」
2024.07.28
interview
8月からの展覧会はfactory zoomerの定番となった「reclaimed blue」展。対談「life」を探しての4回目は、廃ガラスから生まれる「再生の青」について辻和美が語ります。聞き手はズーマの工房長を務める島元かおりです。 (Tは辻、Sは島元、対談は2024年7月、factory zoomerの工房事務所で行った。文と写真・鈴木弘)
S:そもそもreclaimed blue(リクレイムドブルー、再生の青)ってどんな風に始まったんですか。生まれたきっかけを教えてください。 T:きっかけは、もう10年以上前、確か2011年だったかな。自分の作品がフリーマーケットで売られているのを見たのね。なんだかショックだったなー。もう、いらなくなったんだなって。まあ物を生み出して販売している者として、物は消費されていくし、流行もあるし、その宿命はある程度理解していたつもりだけど、でも気分が悪かったなー。それがきっかけで、お家でご不要になった作品を工房に戻してください、もういちど溶かし直して新しい作品に再生しますっていうプロジェクトを始めたわけ。それが一番最初。
S:その不要作品返却プロジェクトはどうなりました? T:実際にいらなくなったって作品を送り返してきた人は今のところ、一人もいない(笑)。まあ、かなり廃棄用の失敗作がたまっていたから、溶解炉でそれを溶かしてみた。うちの作品は割と黒いガラスが多いから、溶かし直したらグレーになるのかなと思ってたらブルーが出てきたのね。黒が多いから藍のような綺麗な濃い青。思った以上に美しかったですね。 S:そうした作品の再生は他の工房でもやっていたんですか? T:沖縄のガラス工房は米軍基地から出るコーラやビールの瓶を溶かし直して琉球ガラスを作っているし、金沢の卯辰山工芸工房の先輩でやってる作家もいた。ただ自分の作品を回収して再生しようというのは聞いたことがないかもしれない。あと、ブルーをわざわざ強調したのもうちが初めてだと思う。
S:もう13年も経つんですね。この間で何か変わりましたか。 T:工房で出る廃材を黒、透明、色ガラスと大きく3色に分けて保管すると、1年で大体みかん箱サイズのプラスチックケース20箱から30箱分貯まるでしょ。溶かし直す時、黒を多く使うと濃紺になって、他の色物を使うと淡いソーダ色になる。青でも色んなトーンが出せるようになって面白くなってきたよね。最初は偶然できた色だったけど、今はかなり意図的に作れるようになったよね。毎年夏、炉の中の坩堝替えする1ヶ月前ぐらいから廃材を投入して、1年分の廃材を溶かすと気分もスッキリする。
S:私が入社した10年ぐらい前は青もフォルム、形で見せていたように思います。その後、柄やカットが増えましたか? T:カットを意図的に増やしたつもりはないかな。もともとあったスタンダードシリーズのカットを再生ガラスの青で置き換えてみたのよ。最初はロックグラスの「花」を作ってみた。濃いガラスにカットを入れることで一つのグラスの中に濃淡が生まれて、綺麗な模様が浮き出てくるのが分かって、ちょっと得した気分だった。
S:再生って古くて新しいテーマというか。 T:今の時代はSDGs(エスディージーズ、持続可能な開発目標)って声高に言うけど、再生の青はガラスという素材だからできること。工房には溶解できる設備があるしね。リサイクルだから偉いんじゃなくて、廃材を原料として普段より尊いもの、人を驚かせるものを作りたいわけ。何でできてるんですかって聞かれたとき、1年間ためたゴミから生まれましたって説明するの楽しくない?
S:今回の展覧会でのチャレンジは。 T:韓国・李朝の形が好きでこれまでも写しを作ってるけど、今回も李朝の形をメインに据えます。ただ現代人が李朝をまねると意図が表に出過ぎてしまう。韓国の当時の職人は表現うんぬんじゃなくて作ってるから作為を感じさせない美しさがある。そこを踏まえた上で作りたい。上と下が合う大きなものや蓋をしたら球形になるものとか、島元さんには難しいことをお願いしてます。陶芸でやってることをガラスでやるんだから無理があるのは分かってるけどね。モチーフとして花を描くことは続けたい。濃紺のブルーは向こうが見えない分、形がはっきりするから息を吹き込んでできる物としての美しさを出せたらと思う。
S:ブルーの季節は緊張します。どんな新しい形、難しいお題が出てくるのか身構えます。課題をこなすのは楽しいですけど。今回はまた新しい植物のカット作品がありますが、以前のシリーズより、繊細な涼やかさが出ているような気がします。 T:少し大人びた雰囲気だよね。カットの技術で筆で描いたような滑らかな線で軽やかさを出してください。
S:ブルーには色んな可能性がありますね。 T:色の濃淡をコントロールできるようになったのが大きいね。 S:ガラスの色を透明からブルーに変え、吹き終わると今度は坩堝自体を替える。うちの工房にとって、いわば一年の終わりで始まり。この時期は大変だけど一番楽しいかも。 T:あと、今度の展覧会では「リライフ」という作品を2点出すよ。箱の片方に黒のスタンダードの作品、もう片方にブルーの作品を入れて、対比できるように並べる。使用前・使用後みたいな感じで、reclaimed blueが一目で分かるようにね。
島元かおり(しまもと・かおり)1991年生まれ。群馬県出身。2014年に長岡造形大学美術工芸学科を卒業し、factory zoomer入社。柄のカットや研磨を行うコールドワークを担当、作品の完成度や工房全体の制作スケジュールも管理する。 ー編集後記ー 島元さんはキャリア10年にしてズーマを仕切る制作の要。初めての師弟対談はボスが右腕に工房と作品の来歴を語る格好で、代表的なシリーズとなった「再生の青」の誕生秘話から現在までの展開をたどってくれました。(鈴木) 78th exhibition
reclaimed blue
2024.08.02 fri. — 09.15 sun.
8/2(金)12:00~ 3(土)14:00までのご来店は、事前ご予約制とさせて頂きます。 ※ご予約受付は終了いたしました。
対談:lifeを探して③川上直子「美しき労働着」
2024.06.23
interview
対談「life」を探しての3回目。今回の相手はエレガントでありつつ働きやすいと評判の制服を手掛けるDoIの川上直子さん。人気の作品が生まれた経緯や込めた思い、今後の展開などについて自身も洋服好きの辻和美が聞きました。 (Tは辻、Kは川上、対談は2024年5月、factory zoomer /lifeで行った。文と写真・鈴木弘)
T:factory zoomer(ズーマ)では2021年6月以来、2回目の展覧会になります。前回は新型コロナの真っ只中でした。もう3年も前になるんですね。 K:ちょうど芍薬の花がぎりぎり終わりそうな時期でした。 T:そうそう。会場にピンクの芍薬を飾ってほしい、って言われて必死に探しましたよ。 K:ズーマをイメージした時、ピンクが思い浮かんだんです。ポップな原色のピンク。コロナ禍で鬱々としていたせいもあって明るい色を選んだのかもしれません。 T:うちの制服を三色の濃淡ピンクで作ってくれましたね。すごく好評でした。今はDoIと言えば、いろんなお店のユニフォーム(制服)を作っているブランドというイメージがあります。
K:制服にこだわっているつもりは全くないのですが、固まってきたのは、辻さんが8年くらい前に新しいギャラリーを開くときに依頼をいただいたのがきっかけみたいなものなんですよ。それから、確かに依頼も多いんですが、全く知らない人に対しては、イメージがわかなくて作れないから、申し訳ないけどお断りしてるんです。 T:じゃあ、そのギャラリーのオーナーと面識があったり、活動を知っている場合に制服(働衣)をデザインするってことですね。以前に同じ熊本在住の料理家の細川亜衣さんのエプロンを作ってらっしゃいましたよね? 制服にはこだわってなかったって言うけど、くるみの木のほかに料理家の渡辺有子さんとか、和菓子のここのつさん(東京)とか、そのお店のモデルになる服を作ってますよね。 K:まあ、そうです。でも実は、制服はすごく難しいんです。幅が広くて。男性と女性が同じものってわけにはいかないし、コストという制約もあるし。 T:それが逆に良かったんじゃないですか? 制約の中で精一杯、考えて考えて。みんなが着たいものを短い時間で作り上げていると思うけど。 K:辻さん、巨匠のことはある程度知ってたから作りやすかった。 T:恥ずかしいけど私のことを「ミューズ(女神)」って言ってた。その場所のミューズたちに向けて作るって。 K:やっぱり相手の顔を見ないと作れない。でも最近は代表者を見ないで作ることも多くなってきて戸惑ってます。知ってたらすごく速いんだけど。 T:うん、なんか分かる気がする。
K:でもね、今は、制服を作りたいわけじゃないんだけどなあ。 T:もともとそうではなくて、流れで作っていたってこと? もしかしたら「制服」っていう名前の問題かな。「コスチューム」も違うか。あっ「働衣」って付けてるじゃない。忘れていた。ブランド名ではないですか! 実際、今の川上さんをつくったのは制服(働衣)でしょ。作らないわけにはいかないよね。これからも。違うことやるなら、別ブランドつくってしまうとかね。 K:まあ確かに。三重のVISON(ヴィソン)のKATACHI museum(カタチミュージアム)とか、東京の新しい茶寮のとかもやってるど、制服やるつもりじゃなかったから苦しいところがある。 T:みんな川上さんに任せると素敵なものができるって知ってるんですよ。だから私たちもまた新しいお店も川上さん、先生に作ってもらいたいとお願いしました。ただカッコよくても締め付けられるのはしんどいでしょ、働く時に。川上さんが作る制服は何しろ着やすいの。肩の辺りが広かったり、中に服を着ていても楽だったり、その中の服を少し見せて着ることもできるし。よく考えられてると思う。 K:もちろん体の動きに合わせてアームホールを作るし、脚捌きがいいようにスリットやベンツを入れたりするし、着てカサカサしない、肌に優しいことも大切です。洗濯に強い布や縫製も考えます。自分がイメージしたように着てもらえないとデザインが悪かったのかなと反省したりもします。
T:では、制服の他には何を作ってるの? K:ブランド名は、働く服なので働く衣と書いて「働衣(どうい)」なんだけど、普通のエプロンじゃなくて「ハレの日に着るエプロン」っていうコンセプトで、お客さまを迎える時の”見せエプロン”を作っている感じ。主婦は毎日が仕事だから、少しでも気持ちのいい服を着てると気分がいいじゃないですか。誰でも作れるものじゃなくて、なるべくキレイな美しいエプロンを、と思いながら作ってます。 T:エプロンって参入しやすそうで、競争が激しそう。 K:自分が第一人者だなんて思ってないけど、作る人は増えてますよ。安い値段のものも。ただきちんとしたものを作って、縫製さんにもちゃんとした金額を払うとなると、一着が4万とか5万とかどうしてもそれなりの値段になってしまうんです。悩みどころです。
T:今後はどんな仕事がしたいの? K:それが見えなくて困ってるんですよ、今。「これから」って言われても困る。 T:でも何か考えてるんでしょ。 K:うーん。制服はどんどん増えて、モデルができてきた。できればDoIじゃない別のブランドを立ち上げたいかな。 T:さっきの話になるね。 K:好きな人のために作っていた制服が今は独り歩きしてる感じ。 T:あーそんな感じなんですね。少し分かります。別ブランドで何をやりたいってイメージはあるの? K:作りたいものはあるんだけどお金かかるし、っていうジレンマがいつもあります。一つの布をオリジナルで作ろうとすると500メートル単位になるんですね。そうすると同じ形を何百着も作ることになる。一つの形でせいぜい5枚とか10枚で売り切って次に行きたいのに、それができない。 T:自分で布を織っちゃうとか。 K:貴重な布を作ると、今度はハサミを入れられなくなる。そのまま使うと民族衣装みたいになっちゃう。だから堂々巡りで困ってるんです。実は、最後はドレスとか、一つ何百万もするものを作ってみたいんですよ。ヨーロッパにも出てみたいし。 T:うんうん、なんか取っ掛かりあるといいね。
T:最後に、うちで展覧会をしていただく方みなさんに聞いていますが、「life」という言葉から何かお話しいただけませんか? K:エプロンを作ってる時点で既に「life」です。生活の中に取り入れたい、衣食住の一部として存在するものを作りたいと思ってます。 T:あっ、シンプルに終わってしまった・・・。 K:お店の名前は辻さんらしい。 T:まあベタだけど、私はストレート。カーブは投げられないからね。 K:モノづくりってすごく苦しくて孤独。この世で自分一人かもしれないと思う時がある。考えれば考えるほど変な方向に向かうこともあるし。 T:作り手は人生そのものを作品に投げ込んでるからね。自分がやってきたことの上にしか立てないんだから、周りを気にしすぎることないよ。悩んでないで、さっさと次に行こう!
川上直子(かわかみ・なおこ)熊本市出身・在住。デザイナー・作家。DoI(働衣、ドーイ)を主宰し、働きやすくエレガントな制服を制作。各地のショップに提供する一方、展覧会で作品を発表している。
ー編集後記ー お互いを「きょしょう」「せんせ」と呼び合う二人。働くための服をめぐる話は、あちこち飛んだりぐるぐる回ったり。フランクなやりとりの中にモノづくりに真摯に取り組むからこその葛藤と共感を垣間見た気がします。(鈴木)
77th exhibition
DoI
2024.06.28 fri. — 07.28 sun.
6/28(金) 29(土) 展覧会に合わせ、chanowa 茶会 さ ら さ ら を開催いたします。 ※満席となりました。ご予約ありがとうございました。