対談 lifeを探して⑯ 三谷龍二「小さいけれど役に立つもの」
対談「lifeを探して」の16回目の相手は、現代の暮らしに合った木の器を提案し、執筆や展覧会キュレーションも手がける木工家の三谷龍二さん。生活工芸を牽引する三谷さんのバックボーンはどこから来たのか、創作の転機となったことは何か、辻和美が尋ねました。
(対談は2026年2月、長野県松本市にある三谷さんの工房と自宅で行った。構成・写真 鈴木弘)

辻:三谷さんはこの業界の重鎮でキャリアも長いから、これまで多くの取材を受けてきたと思います。なので今日は作家人生の中での大きな変化、ターニングポイントとなった出来事を中心に教えてください。
三谷:最初の影響として一番大きいのは、やっぱり劇団にいたことですよね。
辻:えっ?そこからですか?
三谷:うん。劇団の影響大きかったと思うんですよ。劇団っていうのは最後は舞台だけど、その作品を作るためにいろんなことが必要だってことを教えてもらった。例えば経済がないと舞台は作れない。冊子を作るんだけど、その時初めて文章を書いたし。小道具も作ったり。演技っていうのは単に技術的なことじゃなくて、本人が持ってる人間性がちゃんと出るみたいな。本人自身の力でやらないと絶対にお客さんに伝わらないって教えられた。そういうことは今考えるとすごく今の自分のものづくりに近いなって思う。ものづくりにしても経済は無視できないし。それから文章を書くこと。劇団ではポスターも作ってたんだけど、そういうビジュアルを作ることも。劇団は1人じゃなくて、みんなで一緒にやるでしょ。それがクラフトフェアとかにもつながってるわけだし。
辻:出発点は劇団ですか、意外でした。
三谷:露天商したっていうのも劇団にいたからできたんですよ。身一つでやるってこと、何かを頼らないっていうか、この肉体だけっていう、そういう感じだったんですね。発想としては頭より肉体。だからどんな時代になっても、この身一つで生きていける力を持つ、ってことなんだと思います。
辻:それは20代の話ですか。京都にいた頃?
三谷:20代ですね。 劇団は19から26までやってました。
辻:そこで今の三谷さんのベースができたんですね。
三谷:大きな変化といえば。ただ劇団というのはやっぱり非日常的で、この時非日常に行き過ぎたっていうところもあったんですよ。それでその後逆にすごく日常の方に振れたんだよね、自分の気持ちがね。
辻:あー、なるほど。それで木の仕事に向かっていったんですね。
三谷:もとから割と日常的なものが好きだったんだよ。でも劇団だから無理して非日常でいた。でも、非日常とか、強い表現は自分には合わなかったんだよね。
辻:それで劇団をやめた後、松本の職業訓練校で木工の修業をして、動物のアクセサリーから器に移って。黒と朱のほかに白漆も始めたんですよね。木工の仕事をする中で松本クラフトフェアの立ち上げは大きな変化だったんじゃないですか?
三谷:クラフトフェアは大きかったと思いますよ。露天していて、身一つって感じで生きたわけじゃないですか。そうすると本当に社会との接点が全くなかったんですよ、その頃は。名前も変えてたぐらいだから。相沢禅っていう名前で。
辻:ちょっと待って、それ何ですか。
三谷:それまでの自分を捨てて、全く違う人間になろうとしてたの。
辻:すごい変化じゃないですか。名前変えてたっていつの話ですか。
三谷:露天商してた時。その頃、朝日グラフの取材があったんだけど、相沢で載ってるよ。
辻:三谷龍二はその時はちょっと裏に引っ込んでたんだ。
三谷:好きじゃなかったんですよね、三谷龍二が。
辻:なんか仮面をかぶって、仮面を売ってたって面白いですよね。それでクラフトフェアに話を戻すと。

三谷:結局ね、松本で誰も知り合いがいなくて、人恋しかったんですよ。それが一番大きかったかもしれない 。人恋しいので、誰か一緒になにかをっていう。で、そのグループに何とか入っていったわけですよ。
辻:そうなんですね。
三谷:クラフトフェアの前の年に、グレイン・ノートっていうのがあって、1984年に地元の4人の木工家でショールームを兼ねたお店を始めたんですよ。その店を作ったことで、4人のメンバーがみんなクラフトフェアに入っていったって感じですね。
辻:調べたら、クラフトフェアの第1回のテーマが面白かったですね。「世界はバラバラになりすぎた。生命はもっと単純なものだ」。あれは三谷さんが付けたんですか。
三谷:タルコフスキーの映画からの引用なんです。アンドレイ・タルコフスキー(ソ連生まれの映画監督)。「ノスタルジア」(1983年)っていう映画からの。
辻:芝居をやってた人だからこそ出てきた言葉ですね。クラフトフェアに付けるようなタイトルじゃないけど。最初のフェアはどんな感じでした?
三谷:1985年の1回目の出品者は45人ぐらい。その頃はタープもなくて、ブルーシートを紐で結わえたみたいな感じで雨風を凌いでたな。
辻:あー、始まりって感じがしますね。
三谷:ちょうど雨まじりの日だったから、ブルーシートが風で飛ばされたり、お客さんがいないとか、まあ散々な感じのスタートでした。ただ、なんか立ち上がる感じはあったんだよね。テントが並ぶとちょっと違う風景になるじゃない。普段見てる公園が自分たちのものに変わるみたいな。その瞬間のフェアが立ち上がった感じっていうのは、事務局メンバーみんなが共有した感動なんだよね。その感動が10年は続いたと思う。
辻:1995年ごろになるとすごい人気でした。
三谷:そこで審査が始まったんだよね。出品者が350人ぐらいになって、もうこれは無理だってことになって。それで150人ぐらいに減らしたんだよね。一時期は1500人ぐらいの応募があったんだよ。来場者は5万とか7万とかいわれて。
辻:すごい勢いでしたね。
三谷:一番のピークはやっぱり 2000年に入って、2005年から2010年の間だったかな。
辻:生活工芸の全盛期だ。
三谷:全盛期だね。僕は松本クラフトは2012年までやってるんですよ。2004年の「素と形」展が20周年展。それが2007年からの「工芸の五月」につながっていくんです。
辻:「工芸の五月」はクラフトフェアとどんな関係?
三谷:クラフトフェアが大きくなりすぎて、駐車場問題なんかが出てきて、住民から不満の声が上がったりして、自分たちの手に負えなくなった。それで行政を巻き込むのが一番いいんじゃないかって。長く続けるためにはね。それで美術館とか博物館とかに声を掛けて「工芸の五月」という名前でやっていこうじゃないかと。

辻:その頃、ギャラリー10㎝を始めたんですよね。
三谷:10㎝のオープンは2011年。クラフトフェアとの両立が難しくなって松本クラフトは2012年で辞めたの。瀬戸内工芸祭が始まったこともあるしね。
辻:なるほど。でも中心人物だった三谷さんが松本クラフトを去るって、これもまた大きな変化だったんじゃないですか?
三谷:20周年の頃から考えてたんだけど、同じ人間がずっとやることに僕は反対だったんですよ。だから若い人に少しずつ移行していった。バトンを渡したんです。
辻:そうしないと、いつまでもみんな頼っちゃいますよね。
三谷:20年もやったら新陳代謝していかないと。だんだん若い人が育ってきて、今も続いてるからね、それが良かったんだと思うんだよね。あと行政が入ったことも。工芸の五月っていうのは松本市のイベントだから予算が出るんですよ。
辻:行政とうまく連携してね。
三谷:そうすれば継続できるよね。今もちゃんとこういう冊子を作ってくれてる。
辻:それで、そのフェアから身を引いて。それから?
三谷:辻さんがディレクターを務めた金沢の生活工芸の展覧会から変わっていったものがありますね。自分の本を整理したんだけど、2010年より前と後で大きく分けられる。それまでも文章は書いていたから言語化はしてきたんだけど、最初は身辺エッセイに近いものなんです。それが身辺のことだけではうまくいかなくなった。展覧会イベントのトークの時、うまく話せなかったじゃないですか。
辻:2人ともね。人前で話すことに慣れてませんでした。
三谷:まだ生活工芸を語る言語を持ってなかったんだよね。
辻:同感です。あのトークショーは2010年でした。1回目はうまくいかなくて、奮起したのが2回目からでした。あれからフェーズが変わった気がします。その時、瀬戸内工芸祭の話が来て作家としての精神面も変わったんじゃないですか?
三谷:瀬戸内の時に書いてあるんですけどね、「生活工芸の地図を広げて」って。社会とか歴史とかの大きな地図を広げて自分がどこにいるのかを知りたいと思ったんだよね。それまでは感覚でやってたんだけど、もう少しこの地図の中でどの位置にいるのか自分がどういうことを考えてるのかを言わないと、周りに伝わっていかないと思ったんだよね。
辻:うんうん。そうでした。

三谷:その後、六九クラフトストリートが2012年からなんですよ。台湾の小慢(シャオマン)の所での展覧会も2012年。あれが初めての海外展だった。
辻:じゃあ六九クラフトはどうして始めようと思ったんですか。
三谷:竹俣(竹俣勇壱、金工)がね、一緒にやろうって。六九クラフトも工藝祭もコンセプトは作家のものじゃなくて、ちょっと遠くから見る、客観性を持った物の見方をしようとしたわけですよ。作家は作り手だからあんまり変に客観的になっていいのかっていうあたりは難しいところですが。
辻:そのバランスがね。
三谷:うん、バランスだと思うんだよね。そういう面では六九はクラフトフェアを補完する感じ。クラフトフェアが作家のものだったら、作り手を補完する形で周りに必ず目利きがいた。その世界を少しずつ作っていこうっていうのが六九クラフトだった。
辻:あれはギャラリーとかコーディネーターとか、つなぎ手の展覧会なんですか?
三谷:そうなんですよ。
辻:確かに作家が自分の中に籠もるのとは違って、社会と繋がるというか、ギャラリーっていうのは一つの窓口ですよね。
三谷:クラフトフェアだけでは足りない視点っていうのがあったと思うんだよね。
辻:違う視点ね。それを六九でやってみたんだ。評判はどうですか。
三谷:今でも続いてますよ。で、僕は自分が69歳になった時にやめようって言ってたんですけど、ちょうどコロナになって、その2年ぐらいできなかったんですよ。それで69も過ぎちゃったんですけど、前田君という若い木工家が「僕がやります」と言ってくれたので、では名前を変えようと「六九工藝祭」になったんですよ。
辻:三谷さんはよく、「作るだけでは伝わらない」と言いますけど、その伝えたいことって何なんですか。
三谷:いろいろありますが、ただ工芸っていうのは本当にすごく一部の人しか関心を持ってない。だから社会の中に少しでも工芸のことを広げていければ、っていうのが一つ。いろんな人がいろんな形で工芸のことを言っていかないと、本当に工芸なんて忘れられちゃうみたいな危機感があるんだよね。
辻:工芸的なことを伝えるって、もう少し具体的に言うと?
三谷:今の社会は、便利さとか効率を求めているけれど、実はその中で大切なものを捨ててしまっているように思うんです。工芸は人が生きるために必要な道具を工夫しながら作ってきた歴史があるから、人とものの膨大な記憶が堆積している。僕たちは日々具体的なものに接し、手でものを作っているので、その仕事を通じて、「人が人として生きるために大切なもの」を、拾い上げるようなことができたら、と思うんです。
辻:そうした活動を小さくてもいいから確実に長く続けていかないといけないってことをおっしゃいますよね。


三谷:失ってはいけないものってあるし、それはずっと見続けていきたいなと思うんですよね。
辻:そうですね。で、その六九工藝祭の後は。
三谷:工藝祭はまだ終わってないからね。
辻:その中での変化みたいなものはないですか。
三谷:結果的には変化してるかもしれないけど、そういうことはあんまり考えてないんですよね。自分はその時その時の一番必要と思うことをやってるんだと思う。
辻:じゃあ三谷さんにとって、変化していいことと、いけないことって何ですか。
三谷:基本的にはやっぱり生活で使えるもの。社会とか生活とかに対して自分が何かできることがあれば嬉しいなという気持ちがあるわけですよ。社会に何か問題があったらそれに対して応えていこうとか、ものを作ることが問題解決になっていけばいいなと思っている。その姿勢は自分に元々あったわけじゃなくて、社会とのやり取りの中で生まれたものだと思うんですよね。だから、そういうやり取りの中でものを作っていくってことだから、社会との関係をちゃんとつないで、つなぎ続けていくとかね。「応答」なんですよ。応答し続けることが自分にとっては大事なことだと思うんですよ。
辻:応答。三谷さんがよく使うキーワードですね。
三谷:で、その内容はね、いろいろ変わってくるかもしれない。その時によって違うので、頑なに守ろうというのではないと思うんですよ。でも応答し続けることによって、その時その時の自分の精一杯のものが出せるわけじゃないですか。そのことはすごく自分にとって嬉しいことだし、結果的にはいいものができるっていうこともある。自分の経験から言えばそういうことがあるので、やっぱり応答をできるだけ自分なりに続けていく、ちゃんとやっていくっていうかな。これも劇団と同じで、やっぱりリアクションなんですよね。
辻:つながってますねー、劇団から。
三谷:劇団で学んだのは、すごくうまい役者と下手な役者がいて、うまい役者が「お前下手だ」って言ったらもうリアクションにならないんですよ。うまい役者は下手な役者のところまで降りてこなきゃいけない。同等でやらなきゃいけないわけ。うまさ、技術を見せびらかしたらリアクションが成立しないわけだよね。結局大事なのは、普通の人としてそこで生きてるってことだと思うんで。役者のキャリアは関係ないわけですよ。むしろキャリアが邪魔になることもあるわけだよね。だから応答ってのはすごく本質的といえば本質的なんで、素のままの人でないといけないってことなんですよ。
辻:へー。そんなこと考えてたんだ。
三谷:それが素人性ってことだと思うんですけど、やっぱり工芸の中で素人性が僕はすごく大事だと思ってるんですけども。
辻:そこが変わっちゃいけないことか。
三谷:応答するためには、いつも自分はゼロでなきゃいけないっていうかな。だから次のことなんかあんまり分かんないわけですよ。
辻:私たちが作家を始めた頃っていうのは、そういう応答力のある人ってすごく少なかったような気がします。
三谷:「自己表現」とかでね。
辻:そう。自己表現。何か自分の作品を作るっていう。素材中心の人にしても素材の可能性をすごく探るとか、技術ですよね。そういう人が多かった中で、この生活工芸っていうのがボンと出てきて。生活工芸の時代が2000年から2015年くらいまでだとすると、その時たまたま、集まった作り手たちに応答力があったんですかね。
三谷:ただ単にものづくりだけでいくんじゃない、っていうのがすごく共通してたと思う。ほんと面白いです。だから時代だと思うんだよね。生活工芸の時代。

辻:金沢での展覧会は久しぶりですね。前回はコロナ真っ只中の2020年秋だったから6年ぶりです。個展は3回目ですが、どんなものになりそうですか? 今回もやっぱり生活で使える小さなもので、って話をしてました。それで村上春樹が翻訳したレイモンド・カーバーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」から A small good thing というタイトルが浮かびました。
三谷:小さい、は僕の出発点なんです。作り始めた1980年代は大作主義だったり、個性的な表現だったり、とにかく強い表現が中心だったわけじゃないですか。その中で僕は木の匙とか作ってたわけです。小さいけど役に立つもの、を作ってたわけですよ。それはある意味、ひとつの対抗軸だったと思うんです。
辻:作品は小さくても、すごく強いメッセージですよ、それは。
三谷:当時はそういうふうに誰も思ってない。でも僕はこれが好きなんだ、ってことは本当に強く出したかったわけですよ。あんまり大きくて立派なものでも、そんなものは要らないよ、って感じがあった。今回のタイトルとすごく近いと思う。最初の本の「木の匙」(2005年、新潮社)で「僕は匙のような小さな働きものが好きだ」って書いてます。今回の作品はスタンダードに近いものだと思う。ずっとやってきてるけど今の自分が作りたいもの。単に小さいものだけではないですけどね。
辻:そうですよね。糸電話は出ますか?
三谷:応答って意味合いですか。
辻:やっぱり糸電話は一つのメッセージになると思うんです。
三谷:これは作品が残ってるかもしれない。大きな壁面があったら三つ並べられる。
辻:じゃあ最後の質問。「ライフ」と聞いて思い浮かべることは何ですか。
三谷:僕にとっては「生活」っていうのがやっぱり大きいですね。生活であり、人生。僕らの世代は割とゴダール(ジャン・リュック・ゴダール、フランス生まれの映画監督)の影響を受けてるんだけど、人が生き生きしてる様子を手持ちのカメラで撮ってるんですよ。あれがやっぱり愛しくて、生きてるってことは本当にいいことだな、って思ったんです。それはルーブルにある美術品を超えて魅力的で。今ここにある人の暮らし、人が生きてるってことは素晴らしいなと。それが自分のベースにあって、生活工芸につながってるんだと思ってます。
辻:いいお話をたくさん聞かせて頂きました。ありがとうございました。

<略歴>
三谷龍二(みたに・りゅうじ)1952年、福井市生まれ。追手門学院大学社会学科卒業。長野県松本技術専門校で木工を学ぶ。1981年、松本市にPERSONA STUDIO設立。2011年、ギャラリー「10cm」を開設。作品制作の一方でクラフトフェアなどの運営に携わる。著書に「手の応答 生活工芸の作家たち」「すぐそばの工芸」「工芸三都物語 遠くの町と手としごと」「木の匙」など。
<編集後記>
ご本人は旗を振ってるわけじゃないと言いますが、生活工芸ムーブメントの中心人物で理論的支柱でもある三谷さん。暮らしの実感と堅実な思想が健やかで美しい現代のスタンダードを生むのでしょう。平易な言葉で深い内容を語る文章も魅力的です。(鈴)
90th exhibition
mitani ryuji
2026.03.20 fri. — 04.19 sun.

●初日の3月20日(金)はご招待のお客様・ご予約のお客様のみのご来店とさせていただきます(募集は終了いたしました)